HOME > 文学鑑賞>森鴎外「舞姫」


第ニ部 

出 口  明治二十一年の冬、ようやく静かな生活が訪れた二人に、新たな難題が持ち上がった。


エリスは二三日前の夜、舞台にて卒倒しつとて、人に扶(たす)けられて帰り来しが、それより心地あしとて休み、もの食ふごとに吐くを、悪阻(つわり)といふものならんと始めて心づきしは母なりき。嗚呼、さらぬだに覚束(おぼつか)なきは我身の行末なるに、若し真(まこと)なりせばいかにせまし。


あいか  赤ちゃんができたの?おめでたでしょ?
でも、何だかあまり嬉しそうでない。どうして?
「嗚呼、さらぬだに覚束なきは我身の行末なるに、若し真なりせばいかにせまし」って、どういうこと?
出 口  ここでは豊太郎はまさに引き裂かれているんだ。
 エリスに自分との子供が生まれる。エリスとの愛の生活は確かに幸せには違いない。
でも、故郷には自分の出世を願って待っている母や、家族たちがいる。
 豊太郎がエリスを愛しているのは事実だが、すべては成り行きの中で起こったことで、豊太郎自身がエリスのために職を辞したわけではなかった。
 友達の讒言(ざんげん)から職を失い、途方に暮れている中、自然とエリスと暮らすようになった。何も国や故郷を棄てると決意したわけではなかったんだ。
あいか  それはそうだけど、でも、それじゃあ、エリスがあまりにもかわいそう。
 先生、エリスは本気で豊太郎を愛しているんでしょ?
出 口  もちろん、エリスは今では豊太郎を一途に愛している。そんな時、相沢謙吉から一通の手紙が届く。


 昨夜(よべ)こに着せられし天方大臣に附きてわれも来たり。伯の汝(なんじ)を見まほしとのたまふに疾(と)く来よ。汝が名誉を恢復するも此時にあるべきぞ。心のみ急がれて用事をのみいひ遣(や)るとなり。読み畢(おわ)りて茫然たる面もちを見て、エリス云ふ。「故郷よりの文なりや。悪しき便(たより)にてはよも。」彼は例の新聞社の報酬に関する書状と思ひしならん。
「否、心にな掛けそ。おん身も名を知る相沢が、大臣と倶にこゝに来てわれを呼ぶなり。急ぐといへば今よりこそ。」


出 口  相沢謙吉が大臣に従って、ベルリンに到着した。大臣が君に会いたいから、来いといった内容だったんだ。
 君の名誉を回復するのは、この時だ、とも書き添えてあった。
 相沢は豊太郎のために、懸命に力になろうとしている。
あいか  でも、エリスはきっと不安にちがいないわ。
出 口  そうだね。エリスはそれでも大臣に会いに行く豊太郎の服装をいそいそ整えてやるんだ。そして、別れ際によほど不安になったのか、思わず、次のような言葉が口をついて出たんだ。


「否、かく衣を更め玉ふを見れば、何となくわが豊太郎の君とは見えず。」又た少し考へて。「よしや富貴になり玉ふ日はありとも、われをば見棄て玉はじ。我病は母の宣(のたま)ふ如くならずとも。」


あいか  先生、「我が病って?」
出 口  もちろん、妊娠のこと。エリスはおなかの赤ちゃんが豊太郎をひきとめる大切なものと感じているらしい。
あいか  はあ~(大きな溜息)エリスの気持ち、よく分かるわ。豊太郎が自分を棄てて日本に帰るのではないかと、不安で不安で仕方がないのよ。
出 口  いよいよ相沢謙吉と久しぶりに対面する。
あいか  相沢は豊太郎のこと、理解してくれたのかしら?


余が胸臆を開いて物語りし不幸なる閲歴を聞きて、かれは屡(しば)驚きしが、なかなかに余をせめんとはせず、却りて他の凡庸なる諸生輩を罵りき。されど物語のをはりしとき、彼は色を正していさむるやう、この一段のことはもと生れながらなる弱き心より出でしなれば、今更に言はんも甲斐なし。とはいへ、学識あり、才能あるものが、いつまでか一少女の情にかゝづらひて、目的なき生活(なりわい)をなすべき。


あいか  ああ、やっぱり。相沢はエリスとのことを、単なる同情に過ぎないと思っているんだ。
 だから――。

人を薦(すす)むるは先づ其能を示すに若(し)かず。これを示して伯の信用を求めよ。又彼少女との関係は、たとい彼に誠ありとも、たとい情交は深くなりぬとも、人材を知りてのこひにあらず、慣習といふ一種の惰性より生じたる交なり。意を決して断てと。是(こ)れその言(こと)のおほむねなりき。


あいか  いやだあ~。「意を決して断て」か。だから、言わないことじゃない。
 いったいどうする気よ。エリスのおなかには赤ちゃんがいるのよ。
出 口  さて、ここから慎重にテキストを読み取っていかなければならないんだ。豊太郎はエリスを棄てたのか、棄てなかったのか、有罪か無罪か。
 エリスとの愛を取れば、半永久的に出世の道は閉ざされ、異国に置き去りにされてしまうことになる。今が復権の最後のチャンスなのだ。


貧きが中にも楽しきは今の生活、棄て難きはエリスが愛。


出 口  これが豊太郎の、本心。
 出世も、お金もいらない。ただエリスの愛があればいい。
 でも、その一方、豊太郎は次のように自分の真情を吐露している。


わが弱き心には思ひ定めんよしなかりしが、しばらく友の言(こと)に従ひて、この情縁を断たんと約しき。余は守る所を失はじと思ひて、おのれに敵するものには抗抵すれども、友に対して否とはえ対へぬが常なり。


あいか  何よ、これ。優柔不断。これが「弱き心」の正体なのね。
 やっぱりエリスを棄てるつもりじゃない。
出 口  まだ棄てると決めた訳じゃないよ。その辺の決断を保留にするように、鴎外は巧みに描いているんだ。
「わが弱き心には思ひ定めんよしなかりし」とあるので、豊太郎はどちらも決めかねると告白している。そこで、「しばらく友の言に従ひて」と、「しばらく」とあることにより、「情縁を断たんと約しき」はとりあえずの処置。
判断を保留にしたまま、豊太郎は口先だけ相沢に約束したと、ここでは書かれている。相沢は自分のために懸命に骨を折ってくれている。そんな友の真摯な忠告を断ることはとてもできそうになかったんだ。
あいか  やっぱりわかんない。
それって、卑怯だし、軟弱、無責任じゃない。私、こんな男、絶対に好きになれない。
出 口  今、あいかちゃんの男性の好みはひとまず置いておいて、ここでは豊太郎が判断保留のまま、とりあえずは相沢に情縁を絶つと約束してしまったことを読み取っておけばいい。
あいか  なんか、ひどい.


 一月ばかり過ぎて、或る日伯は突然われに向ひて、「余はあす、ロシアに向ひて出発すべし。随ひて来(く)べきか、」と問ふ。余は数日間、かの公務に遑(いとま)なき相沢を見ざりしかば、此問は不意に余を驚かしつ。「いかで命に従はざらむ。」余は我恥を表はさん。此答はいち早く決断して言ひしにあらず。余はおのれが信じて頼む心を生じたる人に、卒然ものを問はれたるときは、咄嵯(とっさ)の間(かん)、その答の範囲を善くも量らず、直ちにうべなふことあり。さてうべなひし上にて、その為し難きに心づきても、強(しい)て当時の心虚なりしを掩(おお)ひ隠し、耐忍してこれを実行すること屡々(しばしば)なり。


あいか  ああ、ここでも弱き心ね。
 こうやってずるずると運命に流されていくのよ。
出 口

 その通りだね。
 大臣に突然ロシア行きを命じられた。それを承諾するのだが、それも自分の意志で決断したのではなく、大臣に命じられて咄嵯に断ることができなかったんだ。
 もちろん豊太郎の性質に大きな問題があるのは事実だよ。でも、それを断罪するのではなく、鴎外が何故そのような人物を執拗に描いたのかを考える必要がある。
 そこに鴎外の悩みの本質があると思うんだ。