HOME > 文学鑑賞>森鴎外「舞姫」


あいか  ふ~ん、そんなものなのかしら?
出 口

 豊太郎は大臣と一緒にロシアに行き、エリスとの長い別れが訪れる。二人の愛は、しばらく会えないことにより、ますます深まっていく。
 ロシアにはエリスからの手紙が届く。


 袂(たもと)を分つはた一瞬の苦艱(くげん)なりと思ひしは迷なりけり。我身の常ならぬが漸くにしるくなれる、それさへあるに、縦令(よしや)いかなることありとも、我をば努(ゆめ)な棄て玉ひそ。母とはいたく争ひぬ。されど我身の過ぎし頃には似で思ひ定めたるを見て心折れぬ。わが東に往かん日には、ステツチンわたりの農家に、遠き縁者あるに、身を寄せんとぞいふなる。書きおくり玉ひし如く、大臣の君に重く用ゐられ玉はゞ、我路用の金は兎も角もなりなん。今は只管(ひたすら)君がベルリンにかへり玉はん日を待つのみ。


あいか

 ああ、エリスは豊太郎が大臣に認められて、日本に帰国したなら、自分も一緒に行けると信じようとしていたんだ。そのために、お母さんと喧嘩してまで、説得して。やっぱりエリスが可愛そう。

出 口  豊太郎は死に物狂いで働き、次第に大臣の信任を得てきた。そして、豊太郎の知らないところで、着々と事態は進行していたんだ。
 あいかちゃん、以前、豊太郎は相沢謙吉にエリスとの情交を断つと言ったのを覚えている?
 相沢はそのことをすでに大臣に報告していた。大臣はすっかりエリスとの関係は切れていると思い込んでいる。


 嗚呼、独逸に来し初に、自ら我本領を悟りきと思ひて、また器械的人物とはならじと誓ひしが、こは足を縛して放たれし鳥の暫し羽を動かして自由を得たりと誇りしにはあらずや。足の糸は解くに由なし。さきにこれを繰つりしは、我(わが)某(なにがし)省の官長にて、今はこの糸、あなあはれ、天方伯の手中に在り。


出 口  これが豊太郎の嘆きの言葉だよ。
あいか  う~ん、同情していいような、自業自得と言えば言えるような――。
出 口  では、豊太郎が長い海外生活から、エリスのもとへ帰り着いたときの、エリスの態度を見てみよう。


 車はクロステル街に曲りて、家の入口に駐(とど)まりぬ。この時窓を開く音せしが、車よりは見えず。(ぎょてい)に「カバン」持たせて梯を登らんとする程に、エリスの梯を駈け下るに逢ひぬ。彼が一声叫びて我頸(うなじ)を抱きしを見て馭丁は呆れたる面もちにて、何やらむ髭の内にて云ひしが聞えず。「善くぞ帰り来玉ひし。帰り来玉はずば我命は絶えなんを。」


出 口  おや、あいかちゃん、涙ぐんでいる。
あいか  人目を憚(はばか)らず、豊太郎に抱きつくなんて。
 これほど一心に豊太郎の帰りを待ち望んできたんだわ。
出 口  そうだね。
エリスは手紙の中で、「縦令いかなることありとも、我をば努な棄て玉ひそ」と訴えている。長く会えない日が続いて、豊太郎を慕う気持ちがいっそう募ってきたんだ。しかも、おなかの赤ちゃんも次第に大きくなっていく。
 その一方、豊太郎が自分を棄てて、このまま日本に帰ってしまうのではないかという不安も大きくなっていく。
「帰り来玉はずば我命は絶えなんを」
 エリスはまさに命も絶え絶えになって、豊太郎の帰りを待ちわびていたんだ。
 そして、そうしたエリスの気持ちを一番分かっているのが、当の本人豊太郎自身だったんだ。
あいか  だったら、何故相沢謙吉にあんな約束をしたのよ。やっぱり豊太郎はひどいわ。
出 口  「舞姫」を論ずるとき、恋愛か出世か、豊太郎は苦悩の果てに、出世のためにエリスを棄てたといった論調が見られることがあるのだが、丁寧に読んでいけばそうは書いていないことが分かるだろ?
 出世のためにエリスを棄てたんじゃない。はなからエリスを棄てる気はなかった。だが、彼の「弱き心」のため、相沢の自分に対する真摯な忠告に、否とは言えなかった。そして、相沢はそのことを勝手に大臣に報告した。
 いまさら大臣には相沢の言ったことは嘘だとは言えない。
 だから豊太郎は苦悩するしかないんだ。
あいか 何が「弱き心」よ。結局、自分が悪いんじゃないの。
豊太郎は有罪よ。絶対に有罪。

第三部に続く