HOME > 文学鑑賞>森鴎外「舞姫」


第四部 


 ~謎を解く鍵は冒頭の一文に


出 口  まず最初に確認しておかなければならないこと。
 作品冒頭をもう一度読んでごらん。


 此(この)恨は初め一抹の雲の如く我(わが)心を掠(かす)めて、瑞西(スイス)の山色をも見せず、伊太利(イタリア)の古蹟にも心を留めさせず、中頃は世を厭(いと)ひ、身をはかなみて、腸(はらわた)日ごとに九廻すともいふべき惨痛をわれに負はせ、今は心の奥に凝り固まりて、一点の翳(かげ)とのみなりたれど、文(ふみ)読むごとに、物見るごとに、鏡に映る影、声に応ずる響の如く、限なき懐旧の情を喚び起して、幾度(いくたび)となく我心を苦む。嗚呼、いかにしてか此恨を銷(しよう)せむ。


出 口  この文章が作品末尾の「されど我脳裡に一点の彼を憎むこゝろ今日までも残れりけり」と呼応していることは分かるだろ?
 もちろん末尾の一点の憎む心は相沢謙吉をさしている。そして、豊太郎は、エリスをベルリンに残したまま、帰国の途につく。数ヶ月の船中の中で、一点の彼を恨む心は次第に大きくなり、「腸日とに九廻すともいふべき惨痛」とある。
 これは恨みではなく、惨痛とある限り、もはや相沢謙吉に対する恨みと読むことはできないんじゃないか?
あいか  先生、じゃあ、いったい何に対する痛みなの?
出 口  これが第一の謎だよね。
 そして、それはやがて「一点の翳」となるのだから、おそらく豊太郎は帰国後も生涯この「一点の翳」を心の奥深いところに隠して、何事もなかったように生きていかなければならなくなる。
 もちろんこれは「恨み」の変形であることには代わりがない。だが、ただ、単に相沢謙吉一個人に対する恨みではなくなっているではないか。
あいか  やっぱりわかんないよお。先生、教えて?
出 口  さて、豊太郎が有罪か否か?
 もちろん豊太郎が有罪であることは疑いがない。
 でも、現実には豊太郎はエリスを棄ててはいないんだよ。
あいか  えっ、先生、それどういうこと?
出 口 棄てることさえ許されなかったんだ。豊太郎は相沢謙吉にエリスとの情交を断つことを約束した。でも、それをエリスには言えずに、苦しんでいた。
 あの最後の夜、結局エリスをどうしても捨てることができず、錯乱状態に陥り、そしてエリスを一目見るなり、意識不明になる。
あいか  確かに豊太郎はエリスを棄てなければと思ったけれど、実際には捨てることがで きなかったのね。彼が意識不明の間に、相沢謙吉がやってきて、事の真相をエリ スに告げ、それを聞いたエリスが発狂する。
出 口  うん、だから豊太郎が意識を取り戻したときには、すでにエリスは精神に異常を来していたんだ。相沢謙吉に対する恨みは、すべてが自分のあずかり知らないところで起こってしまったという恨みでもある。
あいか  豊太郎は相沢に情交を断つという約束をしたことは有罪だけど、実際にはそれを実行しなかったから無罪、あるいは情状酌量の余地ありか。
出 口  その通り。では、何故数週間の意識不明という強引な筋立てを用意してまで、鷗外はエリスを発狂させ、豊太郎を帰国させなければならなかったのか?
あいか  う~ん、確かに不自然だわ。なんか推理小説を読んでいるみたいで面白い。
 先生、早く謎解きをしてね。


~「舞姫」は鷗外の贖罪の書~ 


出 口  若い鷗外が帰国した後、その後を追うように、エリスという一人の女性がドイツから日本にやってくる。
あいか  えっ、エリスって。あの「舞姫」の?
出 口  ドイツ名はエリーゼ、長らくこのエリスという人物が実在するかどうか、論争の的だった。なぜなら、鷗外の「ドイツ日記」にエリスに関する記述は一切書かれていない上に、鷗外の家族が「舞姫」は架空の物語だと全面的に否定したんだ。当の本人は、一切それについて語らない。
あいか  で、日本に鷗外を追っかけてきたエリスは、どうなったの?
 鷗外のことをよっぽど愛していないと、若い女性一人で日本まで来るはずもないもの。
出 口  「ドイツ日記」は鷗外帰国後書き直されていた。普通、日記を書き直すことは滅多にない。おそらくエリスに関する一切の記述を、日記から消す必要があったのではないかな。
 そして、家族全員の説得により、エリスを帰してしまう。エリスを鷗外には逢わせなかったらしい(一度だけ逢ったという説もある)。
あいか  そんなのひどすぎる。鷗外も鷗外だわ。そんな家族のいいなりになるなんて。
 でも、どうして、そんなひどいことをしたの?
出 口 ここで忘れてはいけないことは、鷗外は新帰朝者であり、しかも軍人だったということだ。そして、当時軍部の中でもエリス事件が噂になっていた。何としてもその噂をもみ消す必要があったんだ。
 現に、帰国の翌年、赤松登志子と結婚、政略結婚である。エリスはドイツに帰り、すべてはうまくいった―はずだった。
あいか  結局は保身第一だったのね。太田豊太郎よりもひどい。
 鷗外は有罪、絶対有罪よ
出 口  ここで問題なのが、何故鷗外が「舞姫」を書いたかだ。
 だって、あいかちゃん、どう読んだって、豊太郎は鷗外の分身に思えるだろ?
あいか  うん、鷗外そっくりだわ。
出 口  しかも、「舞姫」の豊太郎は自分の立身出世と引き替えに、身籠もっているエリスを棄て、精神に異常を来した彼女を棄てて帰国した。
あいか  ひどい。本当に人間として許せない。
出 口  実際、当時の女性雑誌など、当時の人もあいかちゃんと同じ感想を抱いたようで、豊太郎=鷗外と思い込んで、鷗外に対して非難囂々(ごうごう)だったんだよ。
あいか そりゃ、当然よ。
出 口  でも、変だと思わない? 鷗外の家族たちはエリス事件をもみ消すために、政略結婚までさせたんだよ。そうやって、せっかく嫌な噂をもみ消したのに、何故鷗外がわざわざそれを蒸し返すように「舞姫」を書いたのか?
あいか  あっ、そうか。第一、ヒロインの名前までエリス。まるで懺悔しているみたい。
出 口  「舞姫」は鷗外の小説第一作。その晴れがましい作品に、僕には鷗外自身の深い苦悩が読み取れるんだ。
 もちろん、「舞姫」執筆動機に定説はない。あくまで僕の推論に過ぎないが、「舞姫」は鷗外の贖罪の書ではないかと思うんだ。
あいか  贖罪? 鷗外は罪を犯したの?
出 口 鷗外にとって、ドイツは生涯唯一の自由な世界だった。まさに自由な風に吹かれて、異国の金髪の女性と恋に陥った。
 おそらく鷗外はエリスと結婚の約束をしたに違いない。自由な風の中で、鷗外は家族を何とか説得することができると思ったんだ。
 そして、エリスは鷗外の言葉を信じて、単身日本を訪れる。
あいか  先生、鷗外はエリスを本気で愛していたの?
出 口  もちろんだよ。おそらく鷗外の一生の中で、唯一本気で愛した女性じゃないかな。そして、生涯忘れることはなかった。鷗外の机の中には、終生エリスのイニシャルが付いたハンカチが眠っていたらしいし、晩年の作品の中にもエリスを思わせる女性がしばしば登場する。
 単にエリスという女性を愛しただけでなく、エリスを中心としたドイツの思い出が鷗外の青春であり、そしてその時だけが唯一鷗外が一人の人間として生きることができたからじゃないか、僕にはそう思えるんだ
あいか  鷗外が人間として生きた?
 ということは、鷗外は日本に帰ってからは、一人の人間として生きてないの?
 先生、ねえ、どうして?