実は、幼い頃から、昼行灯(ひるあんどん)然としていた。いまでもそれは変わらない。目的地を確認することなく歩き出した後で迷う。蛍光灯の替え方がわからず考えあぐね、しまいには「この電灯は、一度切れたら買い直さなくてはいけない代物だ」と結論づける。「計画性はないし、どこが論理的なんだと思うことばかりで呆れますよ」と妻の寿美子は笑う。「ダイエットしなきゃとよく言うんですが、普通は“明日から始める”と言うでしょう?それが“明後日から”って宣言して、絶対に実行しない」
 曽祖父は「大本」の教祖、出口王仁三郎。「三千世界一度に開く梅の花艮の金神の世に成りたぞよ。(略)三千世界の立替え立直しを致すぞよ」。目に一丁字もない開祖、出口なおが神懸かりで書いたこのお筆先で知られる大本は、「立替え立直し」という革命思想ゆえに天皇制と鋭く対峙し、戦前、治安維持法、不敬罪により苛烈な弾圧を受けた。特に王仁三郎の現人神の戯画化にも見えるトリックスターぶりは当局の敵愾心を煽った。
 ともあれ昭和初期に800万人の信徒を従え、民衆から知識人や高級官僚、軍人まで絶大な影響を与えたのは間違いない。そうした怪人の影響はしかし、出口の幼少期に直接は見当たらない。むしろ「信者さんが年端もいかない子どもの自分を“汪様”なんて呼ぶから、宗教的な雰囲気がどうも苦手なようでした」と避けるふうだったと言う。
 「苦手なようでした」と他人事のように出口が語るのは、幼少期の記憶があまり定かではないからだ。「いつ何をしていたか、両親は何を生業にしていたのか。いまでもよくわかっていない」
父、和明も大本と距離を置き、早稲田大学を中退後、貸本屋、喫茶店の経営、女子大の講師と職業や住居を転々としていたせいもある。だが、より根本的には、細事にこだわる必要も感じないほど、和明も母、礼子も出口の茫洋さの上を行く鷹揚な人物だったからだろう。
 両親が1週間だけコーヒーの入れ方を学び、見よう見まねで東京・目黒に喫茶店を開店したときだ。間もなく地元のヤクザが「うちの面倒みてくれよ」と暗にみかじめ料を要求してきた。礼子はこう回想する。「てっきりこの方は喫茶店の経営を学びたくて、その面倒をみて欲しいと言ってるんだと思いました。私たちはおコーヒーの入れ方を大まじめに教えたんです。そうしたら違うんですね」
 両親は世間の常識と懸隔していた。だが暗愚だったわけではないのは、和明の影響でヤクザは足を洗ってしまったことからも窺えるだろう。人を自然と暗がりから引き上げる底なしの明るさがあった。