HOME > 対談・真剣勝負 > 第10回 田原総一朗

タブーを越えて、時代の変動を見据えたい 思考停止という心地よさ    
           
既知に依存する官僚的論理から未来を作る論理力へ
タブーが好きな日本人
田原  石原慎太郎が今回の震災を「我欲に走った日本人への天罰だ」と言ったけれど、戦後日本は豊かになるしかなかったんです。豊かになることにしか存在理由がなかったんですよ。
 つまり、国家について考えることはタブーだった。だから、「どこかの国が攻めてきたらどうしよう」というような安全保障を考えるのもいけない。日本にとっての平和とは、安全保障を考えないことだったとも言えると思います。そのため国家だの安全保障を考える人は保守反動だったわけです。でも、国家を前提としない民主主義はありえない。国家を考えないのは思考停止ですよ。
 亡くなった経済学者の高坂正堯さんは「学者が自由に論争できるのは経済しかない」と言っていました。つまり国家も天皇も創価学会もタブーだから、経済しか語れなかった。言論の自由はそこにしかなかったとも言えるんですよ。
出口  原発問題も今まではタブーでした。
田原  40年前に『原子力戦争』という本を書きました。「原発は危ない」という内容ですが、当時はそう言うことがタブーだった。
 ところが、今は「原発は安全だ」というのがタブーです。どうも日本人はタブーをつくるのが好きですね。
出口  長い間、思考停止状態に置かれていたせいだと思うんですよね。
田原  いや、思考停止が好きなんですよ。たとえば、大企業の上層の人いわく、指示待ち社員が増えているというんです。上から言われないとやらない。なぜかといえば、自分で考えて行動したら怒られるんじゃないかと思っているから。
出口  予備校講師という仕事柄、18歳の子どもたちを30年にわたり見てきました。時々世代の差をすごく感じることもあります。
 僕が初めて講師になったとき、ちょうど校内暴力で学校が荒れている時代でした。その反動で学校は管理教育に走ったと思うんですが、管理が徹底して行われたせいで、結局のところ素直だけど自分で考えない子供が増えた。そういう印象をもっています。
 だから指示待ちの姿勢は、教育によって作られた側面もあると思いますね。今や塾も手取り足取りで、こまめに面倒を見ないと親から文句が来る。このように学校の外でも指示待ちの態度が作られていった感があります。
教師と映画監督はコミュニケーション下手
田原  指示待ちも問題なんですが、教える側の問題もあって、僕は世の中で、一番コミュニケーションが下手なのは教師と映画監督だと思っています。
 教師は「自分の説明が悪いから生徒の理解が及ばない」とは考えない。生徒が間違えれば怒ればいいと思っている。
 コミュニケーションとは、自分の言いたいことを話し、それが相手に理解されていく過程のことなんだけれど、教師は言いたいことを言えばいいと思っている。
 次いで映画監督を挙げたのは、相手の言うことを聞いて理解するのもコミュニケーションでしょう? でも、映画監督はそんなことしない。ただ怒っていればいいからです。
 映画じゃないけれど、演劇の蜷川幸雄なんて役者に灰皿を投げつけるわけですよ。蜷川の言い方が適切じゃないから役者は理解できないだけなのに、灰皿を投げつける。
出口  自分が神様になっているわけですね。
田原 大島渚もそうなんですよ。ところが、ここが面白いところなんですが、芝居や映画では監督が神様にならないといけないんですよ。
 僕は一度映画を作ったことがあります。その時、主役のある男性が女性にふられて、波打ち際を歩くシーンがあった。上半身裸という設定なんですが、裸にネクタイを締めさせたほうがいいな。何となくそう思ったので、助監督に「ネクタイを買ってきてくれ」と頼んだ。
 「どういうネクタイですか?」と言うから、どうでもいいと思ったけれど、「じゃあ白い水玉模様の赤いネクタイを買ってきてくれ」と言った。
出口  よく思いつきましたね、そんなネクタイ。
田原  そしたらしばらく経って、「すみません、赤がなくて青しかありませんでした」と、注文したのとは違う色を買ってきた。僕が「それでもいい」と言ったら、周囲のスタッフが「こんな監督の下では働けない」と騒ぎ出した。
出口  え、なぜですか?
田原  「赤でも青でもいいなんて、いい加減だ」ということらしい。ところが実は、この映画はモノクロなんです。赤でも青でも色は変わらないわけです。
 でも、そこは赤だと言った限り、見つけてこなかった奴を蹴っ飛ばすのが監督の務めらしいんです。そうすると、なんだか周囲のみんなが張り切るらしい。
……なんだか余計な話をしちゃいましたね(笑)。