HOME > 対談・真剣勝負 > 第11回 森田真生

〝身体感覚〟を数学で語りたい わかれた世界を繋ぎなおすもの
身体で感じていることを、数学者の言葉で語れないだろうか
森田  まず、「なんで数学なのか」については幾つかの理由があるのですが、まず第一の理由としては僕がさっき言ったように、神に対してキリスト教的な世界観を学びつつも、自分の触感としては別の感覚を持っていました。
 それと同じような事例として、僕は学生の頃バスケ部に所属していたので、その時はひたすら身体性について学んでいました。一方で、授業という形の学校教育では、いわゆる西洋の数学とか物理学とか、そういった世界のことを教わりました。
 それらのつじつまが合わないっていう時に、じゃあそんなキリスト教的世界観はわかりませんとか、物理とか数学なんてわかりませんと言って一方を切り離し、僕のこの身体性だけで考えてみますって言ってしまうと、それは自己満足というか、他人とコミュニケートすることを放棄してしまっていると思うんです。
 でも、この世界の中には、そういう数学的な原理を信じている人達が大勢いて、それが世界を実際に今動かしているっていう事実を前にした時に、その数学を使っている彼らの言葉遣いで、自分の身体的な直観を語れないかっていう思いが強く出てきたわけです。つまり、数学っていうのは、記号であり絶対的に強力な言語で、普遍性を持っているからこそ、数学でグローバルにすべてを語ろうと思う人もいるのですが、僕はそうは思わないんです。
 例えば、僕が信じていること、僕が今感じていることは多分、ずっとアメリカで育ってきた僕の友達には、環境が違う分、よくわからないと思うんです。だから、同じレベルで納得することは、永遠に無いことになってしまう。でも、その全然違うことを信じている者同士でも、コミュニケートすることが必要な場面は、出てくると思うんです。その時必要になるのが、普遍的な言語だと思います。なぜなら、普遍性を持っている言語っていうのは、理解できないもの達同士をつなげる役割をしてくれると思うからです。つまり、「あなたの言葉で僕が信じていることを語ります」っていうことを、僕はやりたいんです。
 それは、アメリカの友達が信じている感覚と、自分の感覚の差異を統合しようということではなくて、僕とあなたは全然違うものを信じているんだけども、僕の信じていることを「あなたの言葉で語りましょう」っていうことをやりたいということです。数学を勉強するっていうことも、根底にはそういう思いがありました。
 こないだ浄土真宗の住職であり、相愛大学人文学部教授でもある釈徹宗先生とお話していた中で、面白かった話があるんですよ。
 釈先生が宗教会議へ行くと、そこにはイスラム教徒、キリスト教徒、仏教徒など、いろんな宗教の人達がいるんです。そこにいる人達は皆、自分の宗教を信じているから、それを基準に結局は同じことを考えてるよねっていう風な方向に、話を持っていきたいわけですね。そこで、釈先生がご自身の思想をいろいろ話すと、イスラム教徒の人が「あ、そっか。それはイスラム教だ。おまえの言ってることはイスラム教そのものだ。よかった」と言って、釈先生に握手を求めるのだけれど、釈先生ご自身は心の中で「何か変な感じがする…… 」と感じていたらしいです(笑)。
 同じことを信じていると共有する必要は無くて、俺らって全然違うことを信じているよねと共感し合う、“共存”っていう方法があると思うんです。だから、僕はアメリカの友達が信じている宗教感覚と自分の感覚との差異を、統合しようっていう風には思わなくて、「僕とあなたは全然違うものを信じているんだけど、僕の信じていることをあなたの言葉で語りましょう」ということをやりたいんです。
 例えば、僕は武術家の甲野善紀先生が言っている、身体で感じ取ることができる瞬間があるのですが、身体で感じているんだっていうだけで終わると、コミュニケーションは成り立たないですよね。
出口  そうですね。
森田  身体で感じていることを数学者の言葉、あるいは物理学者の言葉で、語れないだろうかっていうことが、一番最初の数学を始めた大きな動機としてあるのだと思います。
出口  はい。
森田  あと、もう一つの理由として、世界と向き合っていく時にいろんな方法があると思うのです。例えば宗教的な方法だったり、アートによる方法だったり、いろんな方法がある中で、なんで数学なのかというと、僕にとって数学は、最も特別な才能が無くてもできるものという気がしたんです。自分に特別な才能が無いのに「俺、ちょっと音楽家になろうかな」って、なかなか思わないじゃないですか。
 でも、数学っていうのは、論理という確実な道具があるので、時間はかかるかもしれないけれど、一生懸命にやれば、どこかまでは行けるという感じがするんですよね。
 ニュートンが言っていた言葉に、「人間は大きな海の前で、貝殻を拾っているような存在だ」というものがあります。それに対して岡潔が「じゃあ、その大きな海の方が本質だ」と言ったという、エピソードがあるんです。大きな海に出て行くために、自分の肉体だけで立ち向かえるっていう人はほとんどまれで、最初はボートなどを使いますよね。そのボートに当たるのが論理とか数学で、これは誰もがきちんと一から学んでいくと、確実に少しは前に進める何かなんですよ。音楽っていうのは、才能が無いと一歩も前に進めない感じが僕にはあるのですが、数学っていうのは、僕でも確実に進んで行ける気がしたというのが、僕が数学を選んだもう一つの理由です。
共犯者的なたくらみ
出口  僕は、論理を世に広めていこうとしているのですが、その中でも他者意識、つまり相手に自分のことをわかってもらおうという気持ちを持って、コミュニケートするということについて考えていて……なぜ論理かといったら、人間ってそう簡単にわかり合えないですよね。例えばお互いによく知らない者同士がコミュニケーションする場合、独りよがりな話し方で話しても、理解されません。論理という共通のルールを用いることによってはじめて、きちんとしたコミュニケーションが成り立つし、世界中の人々、さらには過去の人間、未来の人間とさえも、誤解無くコミュニケートできるはずだと考えているからです。
 そういったコミュニケーション実現の手段として、僕はまず、文学の中で使われている言葉を学び直し、そこからアプローチしました。僕は文学の中の言葉、つまり日本語など我々がコミュニケーションで使っている言葉を、自然言語と言っています。これには、非常にあいまいさが残るけど、その分、人間的な部分も残っていく。そんな中で論理を形作り、コミュニケーションを図るという方法です。そのツールが、森田さんにとっては数学の言葉だったんじゃないかな、っていう気がしますね。
 また、言語の問題としても、数学はやっぱり数式・記号という、われわれの使う自然言語とは違う言葉を使っています。それでそういう見えない真理を語るというのはどういうことなのか、そのあたりをちょっとお聞きしたいのですが。
森田  おそらく数学的な言語よりも、自然言語の論理の方が、実践的で広く使える部分があると思います。数学的な言語っていうのは、論理的に考えることを極端に推し進めていますから。なかなか日常会話で「あ、じゃあこれから僕達は、お互いを信じ合うことにしますから、数学で語りましょう」なんてことはあまりないですよね。
 でも、僕がやっている数学はもっと理念的な部分を扱っているんですよ。そして、そういう理念的な部分がものすごく人を動かしているというふうに僕は捉えているんです。
 例えば現代では、数学を1回も勉強したことがない人も、「物は、分解していったら要素に分かれる」ということなどを、何の疑いも持たずに、常識として信じるようになってしまっている。これは集合論という数学の概念が、定着したことによる部分が大きいのです。
 そういった数学の根本的な発想の影響力って、すごく大きいと思います。だから、世の中を変えようとするなら、例えばカリスマ的なリーダーになって、言葉によって人を変えるとか、政治家になって世の中を動かすという手段がありますが、僕は数学をコツコツとやることが実は一番、世の中を変えることにつながるんじゃないかと思うんです。
 僕は、そう考えて数学をやっているのですが、他にもコミュニケーションの手段としていろんなアプローチがあると思います。例えば、僕の先輩の鈴木健さんがやっているPICSY(伝播投資貨幣)という新しい概念を実装し、社会制度を変えることによって世の中を変えるとか、建築を変えることによって世の中を変えるなど、いろんなところを攻めていかなきゃいけない中で、出口さんは自然言語の論理をやって、僕は数学をやっているということですね。
出口  アプローチの方法は異なるけど、目指すところは割と近いでしょうね。僕もそういう意味では、言葉は悪いけど、森田さんには共犯者的な親しみを持っています。この世界をうまく変えてやろうっていう、たくらみがあるというか。
 ところで、森田さんの語る数学と、世間一般に認識されている数学とでは、大分違いますよね。
森田  違いますね。
出口  それがまたおもしろい。森田さんにしかできない、新しい数学が出てくるんじゃないかなっていう気がするんですよ。
森田  本当は、語る人によって数学って違うんですよ。音楽が演奏する人によって違う響きを持つように、数学も語る人によって違う姿を見せて当然だと思うんです。岡潔が語る数学があるし、グロタンディークが語る数学もあるわけです。
数学、未知に近づく言語
出口  いずれにせよ、誰もが理解できる言葉で語れるっていうのは、いいですよね。まあもちろん、数学をある程度理解しているということが、前提の話だと思うけど。それでも、数学の言葉でやると、世界中の人が誤解無く理解してくれる。僕は、特に数学における無限の概念が、神の存在や宇宙を語る際に適していると思います。
森田  僕は幼い頃、アメリカにいましたけど、その後日本に移り住むという経緯があったり、バスケが好きだけど同時に、数学的なことが好きだという思いがあったり。一見すると、全然理解し合えないようなコミュニティの中で、そのどちらにも属せないという経験をしてきたので、その両方とコミュニケートしようとした際に、結果としてあらゆる事象に共通している、論理的なことや数学的なことが残ったんです。その経験があったから、数学が好きになっていったっていう面もあるのかな、って思います。
出口  僕は、自然言語を用いた論理を扱っていますが、論理というのは、それぞれの母国語で表現している以上、日本語を使うのか英語を使うのかといった、言葉の問題は生じます。でも、数学は世界共通の記号を使用しているので、その点の心配は無用ですよね。これは、自然言語には無い大きな武器だと思います。
森田  そうですね。自然言語の文法とかって、歴史を背負っているじゃないですか。それまでの時間の記憶が、そこにいろんな制約をかけてしまっていますよね。だから、突飛なことがあまり言えないわけです。自然言語で、いきなりものすごく変なことを言おうとしても、語彙が無かったり文法的におかしかったりという問題が生じると思います。
 数学は、そういう意味では、過去からはるかに自由です。だからこそ、宇宙について語ったり、未来について語ったりするのに適していますよね。数学は論理的でありさえすれば、どんなことを語ってもいい。新しい概念や言葉も、自由に創造することができます。だから、数学ではいきなりすごく変なことを言うのも、ありなんです。
出口  まさにその通りだと思います。自然言語の背景に歴史や文化があるという考えには、すごく共感します。
森田  数学とて人間のつくった言葉ですから、歴史と文化から完全に独立というわけではもちろんないわけですが、自然言語に比べると、やはりはるかに解放されている。このことが、数学の自由を支えているのかもしれませんね。