HOME > 対談・真剣勝負 > 第三回寺脇研(元文部科学省審議官)

 

 

ゆとり教育の真実
時代が変わる。だから教育も変わらねばならない 生涯にわたって学ぶために学校では何が必要なのか 「総力戦」で教育していく態勢が必要
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マスコミの情報は、いつも正確で公正中立なのか
寺脇  マスコミについても、大きな公共サービスをやるために必要なのは、大きな政府か小さな政府かの議論と同じような問題があるのです。これだけの時代になって、国民の知的レベルも高くなりました。昔に比べれば、学歴も高くなったわけです。だから、「大きな情報」が必要なのですね、今の社会。ところが、大きな情報を提供するときに必要なのは、大きなマスコミじゃないのです。それはマスコミ自身も勘違いしています。官僚と同じで、自分の力を知らずにうぬぼれてしまって。官僚が、俺たちがいなきゃ大きなサービスが担えないと思っているみたいに、大新聞の人や全国ネットの放送局の人たちも、俺たちじゃなきゃ、国民の知る権利に応えられないって勘違いしているのです。
 そこで、彼らの役割をある程度まで縮小して行きます。新聞社や放送局が提供する情報も一定程度必要で、その存在は間違いなく重要です。でも、それ以外の部分で、市民が情報がほしいというときに、そういうことに対応して情報を収集したり分析したりしているミニコミであるとか、ネットなどを通したミニコミであるとか、あるいはオンブズマンみたいな形に整えてほしい情報についての公開をピンポイントで求めていくとか、そういう情報伝達の流れを作って行くことが必要です。情報をマスコミだけに頼っていると、マスコミの記者に興味のないことは全然伝わってこなかったりするのです。
出口  しかし、本当に正確な情報が伝わらないというのは、これはどうしてなのでしょうか。やっぱりマスコミだけでなく官僚も情報を隠しているということなのでしょうか。
寺脇  それは両方ですね、いっしょですね。今、記者クラブ問題が提起されているのは、まさにそのことなのです。官僚とマスコミが記者クラブ制度の中で癒着している。
出口  そこで情報がコントロールされてしまう。
寺脇  それを崩していかなきゃいけません。官僚制だけを壊していってもダメで、マスコミのシステムを見直して行かないといけません。そういうふうに指摘しているのは田中康夫さんだけですけれども、政治家では。「政官」の癒着とか、「政官財」の癒着みたいなことが言われますが、そこに「報」が入っているのです。報道の「報」です。だから、「官報」の癒着っていうのは記者クラブ制度だということで、田中さんは記者クラブ制度を長野県知事時代にやめたわけですね。
出口  それはもう大賛成です。やっぱり記者クラブっていうのは大きな問題を持っていますね。
寺脇  つまりそれは、出口さんが、「こういう教育をすべきです」というように提案しても、「教育委員会でもなければ文科省でもなければ、学校の校長でもない人間が何を言ってるんだ」みたいに言われるのと同じように、マスコミの世界でも、たとえば1人のジャーナリストが何か言うと、「どこの会社にも所属してないような、ただの一介のフリージャーナリストが何を言ってるんだ」と言われる、そのようなことが起こっていたのです。
出口  そうですね。僕個人も実感することがあります。たとえば、これまで、教育に関してさまざまな提案をしたり、発言したり、教材を開発してきました。まったく新しい教育メソッドの『論理エンジン』は、私立の学校だけでも250校が採用しています。これは、日本の教育史上ありえないほどのことだと思います。
 というのは、『論理エンジン』を採用するということは、単にたくさんある教材のひとつを採用するということではなくて、「すべての文章は『論理』で解ける。『論理』の理解・習得が読解力や表現力を育てる」という『論理エンジン』の考え方に、すべての先生が賛同して教えなくてはいけないっていう、ものすごいことなのです。
 でも、ほとんどのマスコミはこうした動きを取り上げることはしません。なぜかと言えば、僕に対して、予備校の講師というイメージが強くあって、僕が何をやっても、まともには取り上げないという風潮があるからだと感じています。
寺脇  そうやってレッテルを貼ってしまうのが簡単だからです。それは文科省だって同じことですよ。新しい教育メソッドが出てきたときに、「それは誰が考えたのか」というようなことにこだわる場合があるのです。
 たとえば、朝の10分間読書運動っていうのがあって、あれは千葉県の私立高校の一教員が考えついて、ご自分が勤務する学校でやったことなのです。朝と午後の10分間、読書をするという運動です。それがだんだん広がって、口コミで広がって行きました。まあそうは言っても数は知れている。で、それを、これはいいことだからって、文科省へ持って行きました。
 そうすると、「そんな一高校教員が、ましてや私立の一高校教員が言っているようなことが何だっていうんだ」という調子です。それに、10分間読書の「ミソ」は、何を読んでもいいというところにあるのです。文科省推薦の本を10分間読みなさい、じゃなくって、偉い人の伝記でなくても何でもいい、野球小説みたいなものでもいいということでやっているわけです。
 しかし、文科省は、そんなものはだめだと言って取り合ってくれない。初等中等教育局でそれこそ門前払いされて、当時私が勤務していた生涯学習局においでになった。「これはすごくいいことですね。だけど学校じゃなかなか取り入れないでしょうね。でも、学校以外のところで社会教育としてやっていくという道はあると思うし、いずれ学校でもこういうことの価値に気づくでしょうね」みたいなことを私は言いました。
 それから何年も経って、読書運動が始まって10年くらい経ってから急に、文科省は、学校側にすり寄ってきました。そして、朝の10分間読書運動はものすごい数の小・中学校に広がって行きました。だけど、最初のところでは、中身の検討をすることもなしに、「そういうことをお前が言ってきても・・・・・・」と、いうようなことをやっている。もうあらゆるところに同じようなことがあるということです。
「○×式教育」では人材が育たない
出口  また、ゆとり教育に話が戻るのですが、「総合的な学習の時間」、それから「生きる力をはぐくむ」っていう基本理念、ああいう考え方には僕はすごく賛成でした。僕もゆとり教育について実際の現場の声をいろいろ聞いていたのですが、最初は現場の先生もすごく混乱したようです。ようやくそれが理解できたとき、先生が自分で頭を使わなきゃだめだと思い至ったのです。
 しかし、経験が足りなかったり指導力がなかったりという先生も多いわけですね。そんな中でも、意欲のある先生というのは、いろいろな工夫をして面白いことをやってきました。ようやくちょっと形になりそうになったときに、またガチャッと国の方針が大きく変わってしまう。
 難しい上に効果が出るかどうかわからないものをやっても仕方ないと考える先生もいれば、積極的に進めていてすごく残念がっている先生も多いのです。ですから、もっと続けていたら、いろいろな面白いことが起こってくるだろうなあって、僕は思っていました。
寺脇  それはもう、政治の責任ですね。小泉・安倍内閣のときに、ゆとり教育の重要な背景を直視することなく見直しが指示され、文科省もそれに動かされていったわけです。
 近代っていうのは、「○×式教育」というのが相当有力なのです。完全に有力とまではいきませんけれどもね。いくら近代といっても○×式だけでいいわけはないのですから。ただ、○×式はすごく有効なわけです。どっちをとるか、どこへ行くかという時に、多数決をとって、少数派は多数派に従って行くことによってまとまって、国や社会が発展すると考えるわけです。この考え方で発展すると信じてやってきたわけです。
 しかし、脱近代という中で、成長が限界に陥ってきたときに、この状況の中でみんなが平和共存して行かねばならないということを考えると、「○×式で切り捨てられてしまう少数派」という考え方に目を向けなければいけなくなりますよね。そうすると、○×式のものの考え方のパーセンテージを下げて行かなきゃいけない。逆に言うと、○×式でない考え方を育てて行かなければいけないのです。
 「総合学習」っていうのはまさにそういうことです。たとえば、「CO2を削減するのはいいことですか、悪いことですか?」って○×式で聞いたら、誰でも○って答えますよね。CO2が削減されないほうがいいなんていう人はいません。ところが、「あなたは冷房を使いたいですか、使いたくないですか?」って聞いたら、使いたいほうに○をつける人が多いでしょう。それでは矛盾するわけですよ。その中で、冷房をどれくらい我慢するのか、CO2削減についてどんな戦略をたてて行くのかということを考えなければいけない。○×式ではとうてい対処できないのです。
出口  そうですよね。今のお話で、僕もいくつか頭に浮かんでくることがあります。たとえば、今のマスコミの世論調査が、まさに○×式ですよね。米軍基地の普天間移設問題に賛成か反対かと聞けば、みんな反対って言いますよ。でも、そんなふうに賛成か反対かを表明すればいいというような単純な問題ではないと思います。ところが、もうそこで、世論・国民はみんな反対しているとドーンとやってしまって、なんかこう世論操作して流れを作ってしまうように感じるのです。
寺脇  そうです、そのとおりです。内閣支持率なんかまさにそうですよ。管内閣を支持しますか、しませんかって、そんなことを聞いているわけでしょう。
出口  そうですよ、そんな単純なことではないですよね。
寺脇  だから、それはマスコミが、「○×式マスコミ」から抜けきっていないということです。このごろになって、さすがに、世論調査で、もう毎週のように内閣支持率を調べるのはいかがなものかって話が出てきたじゃないですか。そりゃ出てきますよ。それは結局マスコミが○×式をやめていないからです。
 マスコミは、ゆとり教育がいいのか悪いのかみたいな○×式的なことを言うけれど、そんな簡単なものじゃない。そのゆとり教育的な部分を、入れていかなきゃいけないファクターと、そうではないファクターがあるのです。ゆとり教育になったからといって、たとえば、掛け算の九九を暗記するのをやめますって言っているわけじゃないのですから。
出口  今の○×式のことですけれども、先ほど、日本は模倣型の教育をずっとやってきたというお話をしました。で、結局模倣型って何かっていったら、あらゆる学習を、情報としてしかとらえていないというものです。となると、そこから総合学習という発想は湧いてこないのです。これを知っているか知っていないか、○か×かという、もう、全部分断された情報というか、その典型的なものが、異論はあると思いますが、学習指導要領だと思っています。
 これは、大きく変えなきゃだめだと思います。というのは、文科省が、たとえば、中学1年の英語はこれだけのことを教えなさいと決めてしまう。でも、国語では、どんな情報を与えていいかわからないから、とりあえずは、その学年にふさわしい文章を並べておく。あとは先生がどう教えようとかまわない、何を教えても教えなくても別に問題は起こってこない、というのが国語という教科になってしまっていると思います。
 こうやって、バラバラな情報の集まりというふうに、学習内容が分断されるのです。その結果○×式で学力を測ることになるという面もあります。また、国社数理外の学習がばらばらであって、さらに小中高と連続しなくなってしまうという問題も起こっていると思います。
寺脇  それはそのとおりですね。小・中・高の分断、「小の理科、「中の理科」、「高の理科」というようなことになってしまっています。