HOME > 対談・真剣勝負 > 第三回寺脇研(元文部科学省審議官)

 

 

寺脇研 ゆとり教育の真実
時代が変わる。だから教育も変わらねばならない 生涯にわたって学ぶために学校では何が必要なのか 「総力戦」で教育していく態勢が必要
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第2部 生涯にわたって学ぶために学校では何が必要なのか
誤解された学習指導要領
寺脇  たまたま昨日、文科省の大先輩の方が書いた、『戦後日本教育史』っていう本が送られてきたので、読んでみました。その中にあったのですが、私がゆとり教育を説明するときに、たとえば台形の公式が学習指導要領の小学校5年のところに、前は載っていましたが、もう載らなくなりましたと言ったら、大騒ぎになったというのです。「台形の公式よ、さようなら」などというふうに。
 それはどういうことかというと、学習指導要領に対する大きな誤解があるからです。文科省側は、これは最低限、あとはもうどんどん、つまり、極端に言えば、これさえやればあとは先生方が自由に教えていいのです、いろいろなことを教えていいのですと言っている。ところが、現場の先生方は、これ以上は教えてはいけないというふうに解釈して指導しています。
 そのことは、まあちょっと歴史的な流れがありまして、文科省に責任があるわけですが。これだけを教えていれば後は自由に教えてよい、だったものですから、1950年代から60年代、特に60年代から70年代にかけて、政治的偏向教育っていうものが、全国的に行われてしまったのです。何を教えてもいいのだからと、歴史教育ではマルクスで共産党が正しいみたいなことを教えたり。当然、これは何とかしなければならないということになりました。社会科で好き勝手なことを教えられたら困りますから。理科などは何を教えても特にかまわないのですが。
 結局、文科省自身が自分の首を絞めてしまった形なのですが、その偏向教育を防ぐために、学習指導要領に書いてあること以外はやっちゃいけないと受け取られるようなことを、その場しのぎで言ってしまったのです。それを教育現場がそのまま受け取ってしまい、誤解へと進んでしまったのです。
 だから、学習指導要領は、変えるべきというよりは、本来の姿を徹底すべきですね。これはもう、これさえやっておけば、たとえば、掛け算の九九をやります。みんなこれやってくださいね、小学校2年生でやります、と。そのうえで、小学校2年生で台形の面積をやったってかまわないのです。どんどん発展して行っていい。子どもたちがやりたいというそれだけの知的好奇心と、それから学力がついてくれば、「ちょっと難しいことやってみるか」とやったって、全然かまわないのです。
 それが、指導要領を超えることをやっちゃいけないかのような錯覚を生んでしまった。それを正していかないといけません。
出口  二つのポイントがあると思います。一つが、最低限これだけはやらなきゃいけないという学習内容の明確化。次に、特に、歴史などであまりにも極端なことを教えてはいけないということ。歴史に関しては人それぞれいろいろな解釈、いろいろな価値観があると思います。しかし、僕は、日本の場合はやっぱり憲法があるわけだから、憲法において戦争を放棄して、永久の平和を目指そうとうたっている限りは、その憲法に違反するような内容を教えてはいけないと思います。どんなに思想の違いがあっても、です。
 最低限のことをきっちりやって、それを実感させたりどんどん発展させたりとなると、学習の内容は減らさなきゃだめでしょうね。今は、それが学力低下の元凶と言われて、どんどん学習内容を増やす方向になってしいました。
 それは本来の寺脇さんの考える学習指導要領とは違うわけですよね。
寺脇  出口さんは「学習」っていう言葉をお使いになるけど、「教育」っていう言葉を、みんなが使いたがるわけです。今、出口さんは「学習を増やした」とおっしゃったけど、文科省は「教育を増やした」と言って威張っているわけです。やっぱり授業時間が少なすぎるので増やしましたとか、教科書を厚くしましたとか。「教育」をいくら増やしても、子どもに学力もつかなければ、生きる力もつかないのです。「学習」が増えれば、生きる力も、能力もつくわけですよ。そこがはき違えられていて、子どもに足りないことがあるって言ったら、「教科書を厚くすればいいのです。学校の授業時間を今まで5時間だったのを6時間にすればいいのです」という話になる。
 そうではなくて、子どもの持っている24時間っていうものがあるわけですから、その24時間の中の、たとえば学校で教育を受ける時間が6時間あるとするならば、その6時間を7時間にするということを考えるのではなく、それ以外の時間にどういう学習をしていくのか、それを考えなければならないということです。
 もちろん、場としての学校はあってもいいのです。たとえば、先生の側が与える時間が6時間あるけれども、あと、子どもたちが自分の学びたいことを学ぶ時間が1時間か2時間あって、トータル8時間の学校です、ということなら。考え方を切り替えない限り、学校の授業時間が増えるっていうのは、模倣をしなさいっていう時間が増えて行くにすぎないのです。
出口  おっしゃるとおりですよね。
寺脇  先生が、たとえば「この文章はこういう意味なんだから、これを覚えなさい、こういう時はこうなる」と言うのではなくて、「ちゃんと自分で論理的に考えてみなさい」というように指導することが学習でしょう。それを、先生の言うことを覚えなさいというように、先生が一方的に教え込む時間を、いくら増やしたって意味はないということなのです。
出口  ただ、問題はありますね。たとえば、僕が「教育をこう変えるべきではないか」と提案すると、先生も学校も賛同してくださるのですが、そこで必ず出てくるのが、「授業時間数が減っているのに、教科書が、指導要領が、これだけはやらなきゃいけないとしているので、とてもじゃないけど余裕はなく、それ以外のものはいいと思ってもできません」というのが、今の日本の教育の中で、支配的になっているわけです。
寺脇  ちょっと不思議でならないのが、小・中学校ならばまだわかるのですが、高校に問題があるのです。高校の学習指導要領ってお読みになったことがあるでしょう。
出口  はい、あります。
寺脇  何も書いてないじゃないですか。法的拘束力がある文部省告示の学習指導要領なのに、もう高校のものなんて、途方にくれるくらい簡単にしか書いていない。そして、申し訳ないけど、自分で考えるっていうことを先生方がしようとしない。そして、「いや、こんなに退行的なことでは困ってしまうから、もうちょっと何かいいものはありませんか」って言うから、学習指導要領の指導書みたいな分厚いものが出てきてしまうのです。
出口  教科書会社の問題もけっこう大きいかもしれませんね。
寺脇  ええ。教科書にも、また教科書の指導書があるでしょう。教科書のいわゆる「虎の巻」っていうものがあったりします。教科書会社にもおっしゃるとおり問題がある。
 教科書がいかにおかしいかっていうと、今年の4月にメディアが大騒ぎしましたね。2011年から学習指導要領が変わって、ゆとり教育と決別して、学習内容が増え、教科書が分厚くなるみたいなことを言って、テレビで教科書の目方なんか測って、もう本当におかしなことをやっているじゃありませんか。ゆとり教育とは全然決別していないのだけれど、教科書の目方が増えることは事実です。で、何で目方が増えるかというと、教科書会社が、今度は目方を増やす競争をしているわけです。厚い教科書が売れるだろうと考えているのです。
 これはどうしようもないなと思ったのは、教育基本法の改正がありましたね、安倍内閣のときに。私は、必ずしもいいところばかりでもないし、悪いところばかりでもないと思うけれども、その中で、安倍さんは「美しい国日本」をスローガンに立ち上げて、日本の伝統を学べよと主張している。それは私も賛成。民主党の政権だって賛成でしょう。じゃあ教科書に何がどういうふうに出てきているかっていうと、小学校の5年生くらいの教科書に、世阿弥の心とかいって出ているわけです。あるいは歌舞伎の歴史とか。そんなふうに教科書に書いてあれば、子どもたちが歌舞伎や能、狂言が好きになったり、誇りに思ったりすると考えているとする考え方がおかしいです。
 むしろそれは、ゆとりを作る中で、土曜、日曜が休みになり、一方、総合学習の時間では、日本の文化に親しむなどさまざまな試みがなされ、子どもたちが、歌舞伎や能や狂言に触れる機会も飛躍的に増えているわけです。そういう変化の中で、今、小さい子どもたちが、能や狂言や歌舞伎に親しむ度合いっていうのが、僕らの子どものころに比べるとうんと広がっている。だけど、それを教科書に載せて覚えこませないと、わかったことにならないという考え方、それがおかしいと思います。