HOME > 対談・真剣勝負 > 第三回寺脇研(元文部科学省審議官)

 

 

ゆとり教育の真実
時代が変わる。だから教育も変わらねばならない 生涯にわたって学ぶために学校では何が必要なのか 「総力戦」で教育していく態勢が必要
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学習の「量」より「メソッド」に期待
寺脇  出口さんがお作りになった『論理エンジン』は、結局は「メソッド」なわけですね。教科書会社もメソッドっていうものを考えればいいのに、それをやらない。うがった見方をすれば、教科書が厚かったら価格を高くできるからじゃないかと思うくらい、目に見える量にして増やさないと、意味がないという考え方があるようです。
 本当に大事なのは、目に見える量ではなくって、いかに的確に子どもの能力を高め、子どもの生きる力を高めて行くことにつながるかだと思います。
 だから、学校が”メソッドを採用する”ということは、簡単には進まないと思いますね。形に見える分厚いものだと、これをいかにもやりましたっていう感じになるのですけれども、「考え方を変えればこういう教育ができる」、というようなものは、なかなか見えにくいものです。だから、それにお金を使うのはどうだろう、そういうことはありそうです。
出口  僕の、今やっている仕事というか、具体的な「絵」というのは、国語という考え方を捨てて、論理の理解とか、日本語における論理力というものをしっかり身につけようということです。たとえば、人の話の筋道をきちんと理解するとか、筋道をたてて話すとか、文章を筋道を立てて読み、それをまとめて説明し、筋の通った文章を書いて行くという、こうしたものをきちんと学んでいくということです。
 これが、コンピュータにおけるOSにあたるものかなと思っています。言語処理能力と言えばいいでしょうか。これを高めると、OSに乗っかって、初めていろいろな学習が動いて行くという考え方です。となると、今の国社数理外とか、小中高っていう分断した考え方を、全部取っ払って考えないとできないのです。すべての学校や教科の共通点をOSとして取り扱うことによって、小中高と分けることなく連続してずっと論理力を鍛えこむことができるし、それにのっかって、日本語を使うあらゆる教科の理解を促して行きます。こういうことをやっています。
寺脇  いや、本当に大事なことですよ。「論理力とはコミュニケーション能力」と言ってもいいでしょうね。要は、何を相手に伝えるのか、それから相手の何を理解するのか。そのために必須な能力ですね。日本の国語教育というものが、字句の意味を学ぶ訓詁学みたいになってしまって、漱石が出てくれば、これはこういう意味だっていうことを教える。でもこれだけでは、人にものを教える面白さも伝わる面白さもなくなってしまう。それこそ文科省教育の悪いところだって言われたりします。
 たとえば、「春の小川がさらさらいくよ」って“さらさら”じゃなくて、他の表現じゃいけないのか、というような疑問に対して、「いや、さらさらだ」、みたいに答えてしまう、そんなところですね。国語っていうか、言語っていうのは、ものを伝える媒体で、手段ですよね。その手段を目的化してしまって、国語力とかいうわけのわからないものに閉じこめてしまったということなのです。
出口  そうですね。おっしゃるとおりです。そうするともう、国語はセンス・感覚の教科だ、というふうに思い違いしてしまいます。
寺脇  だから、日本の英語教育が間違っていたということは、もう誰でもがわかっているのに、国語教育も同じことをやってきたということが理解できていないのですよ。
出口  これを本当に進めようと考えたら、今の教科書とか、さまざまな枠組みでは実現が難しくなっている。それとやっぱり、物事を全部情報としてとらえる考え方っていうのも変えていかなきゃだめですね。そういう意味では、生きる力をはぐくむ総合学習っていうのは、僕は絶対になくしちゃならないものだと思います。
寺脇  総合学習はさっき言ったように○×式ではない考え方にしていくものです。さっき私は、ゆとり教育というのは、メディアが付けた名称だと言いましたが、じゃ文科省的には何なのかって言うと、まあ別に公式に定めた名称はないですけれども、私に言わせれば、臨教審の流れから、「生涯学習」です。つまり、それまでの、学校で詰め込みます、終わった瞬間一切学びませんでした、なんていうことじゃなしに、生涯にわたって学んでいく、その基礎を学校が提供するということです。
 あえて国語以外の教科で話すなら、美術、あるいは音楽がありますね。これも授業時間数が減ったわけです。いわゆるゆとり教育の中で。理科とか数学の先生は授業時間数が減った、イコール学力が下がると思っている。じゃ、音楽の先生や美術の先生がそう思っているかと言うと、実はそうじゃないですね。美術とか音楽というものは、もう明らかに生涯にわたって親しむものじゃないですか。学校を卒業してまで数学をやる人はまずいないけれど、学校を卒業しても、ほとんどの人は音楽とは縁が切れないし、美術とも縁が切れない。
 だとするならば、ここで中学校の授業時間が1時間減ったことを問題にするのではなくて、全体の中で、生涯学ぶということに通じる新たな視点で考えていかなくてはならない。小学校の図画工作、中学校の美術、高校の美術って切り分けていたのじゃだめなのです。
  つまり、生涯を考えるというときに、教育を小中高で分断していたらおかしいわけです。ここで、「流れ」を作って、その流れをずーっと生涯にわたって通して行くという考え方が必要です。今まではそこに、「堰」があって、「ダム」があって、つまり、小学校が修了するとここで一段落、中学校で一段落みたいなことがあり、今度は高校を卒業したらここで一段落で、もう後はやらなくてもいいやなんて思ってしまうことがあるでしょう。
 そこで、美術の学習や楽しみ方を「流れ」として作っておけば、高校を卒業しても、いろいろなすばらしいことに出合うことができます。  
出口  おっしゃるとおりですよね。ただ、そうやって全部分断してしまった、そのさらに前にある原因というのが、さっき言ったように、物事を情報としてしかとらえていないような後進型の教育になっていることではないでしょうか。だから、情報を減らせばゆとりであって、今度学力が落ちたようだから情報を増やせば学力が伸びるっていうような、おかしな考え方がどこかにあったんじゃないかなって思いますね。
寺脇  何で分断してしまう堰があるのか、これはおかしいですよね。でも、その背景は単純なのです。近代の教育プロセスの中で、最初は、全員行けるのが小学校までだったから、ここで一つの区切りを作って、ここまでにこの力をつけましょうとやっていました。次は、中学校までみんな行けるようになったからと、ここで堰を作った。しかし、いまやほとんど全員が高校まで行くのだから、途中に堰を作る必要なんかないのですよ。
出口  やっぱり、時代の変化がすごく大きいっていうことなのですね。一つが、日本が近代化に成功して、今度は模倣じゃなくて、自分たちが世界の最先端で物を作っていかなきゃだめだという状況があります。さらにもう一つ、さっきおっしゃったように、発展型っていうのは、もう時代に即さないというか、過度に物を生産することはイコール自然を破壊することになります。となると方向転換をして行かなければなりません。
 昔は大学というのは一部のエリートしか行きませんでした。で、一部のエリートが実際に物事を決めて、大多数の国民は無知でもかまわなかった。それに従えばよかったのですね。しかし、今はすべての国民が、高度な現代社会を理解して、正しい判断をし、社会にかかわっていく義務があると思います。だから、こうした時代での教育はかつてと全然違ってくるはずだと思いますね。
寺脇  今おっしゃったことは両方とも正しいですね。最先端と言う時に、頭の古い人たちは、だからトヨタなんだPanasonicだとか言うけれど、最先端にも限界があるわけですよ。トヨタがいくら自動車のトップメーカーだからといっても、空を飛ぶ自動車なんか作れやしないのです。自動車がまだ発展の余地があったころは、日本が最先端を行っていたということはあるんだけれど。頭打ちになってくれば追いついてきますよ、みんな。これ以上発展のしようがないのだから追いついていく。
 しかし、日本が最先端まで行ける分野はまだいっぱいあります。たとえば高齢化の最先端を日本が行っているわけですから、高齢化に対応するサービスとか商品は必要でしょう。あるいは、少子化も日本が世界の先頭を走っているのですから、それに対応する新しい考え方やものが必要でしょう。さらには環境技術とか。まだいっぱい発展することがあるわけです。
 だから、日本は世界中で自動車を作る競争をしている時代から決別して、そういう必要性が高く発展が求められているところへ乗り出して行きましょう。あるいは農業国家と言われるような国には、農産物を大量生産する技術を開発しましょう。それから、日本みたいに国土が狭く農産物がたくさん作れないところは、今までになかった新しい品種、価値の高いすごい作物を作ることでやりましょうとか。そういうことになってくるのですね。
 だから、模倣の仕様がないのです。創造しなきゃいけないのですよ。