HOME > 対談・真剣勝負 > 第六回 佐藤優

 

 

一流評論家、現代文参考書に出会う それぞれの宗教との出会い 宗教の外側から信仰の本質を
出口  日本の教育は、蘭学以来ずっと模倣教育ですから、現在も模倣のための訓練だけを徹底的にやっています。
  だから、今の慶応や早稲田の学生でも、おそらく、勉強はただ偏差値を上げるためのもので、ひたすら必要な情報を詰め込むだけで、その情報がどんな意味を持っているか、あるいはどんな面白いことがあるかについて全く関心がないまま、優秀な成績で入学してしまいますよね。
佐藤  そういうことに関心を持ったらいけないというような訓練をしてしまったために、今の日本国家がすごく弱くなっているというのは、実はその学力低下とかいった表面的な問題より、かなり深刻な話なのではないかと思います。
  要するに偏差値秀才型の人っていうのは、真理を探究したらいけないんですよ。真理を探究するんじゃなくて、教科書に書いてある内容を覚える。ただし、それは理解しなくてもいいんです。そして、1時間から1時間半の制限時間の中で再現する能力なんですね。
  最近びっくりしたことがありました。非常によく売れている某社の国家公務員の2種試験の問題集、これは大卒程度の知識レベルです。そのマクロ経済学とミクロ経済学の練習問題集をなんとなく手にとってみて、序文を見てびっくりして買ったんですね。それはなぜかというと、「微分法について、この微分の公式については覚える必要もないし、変化とは何か、ということについては考える必要もない。携帯電話をこなすのと一緒なんだ。携帯電話のマニュアルと同じように、冪数があったらそれを前に持ってきて一つ減らす、こういうやり方をしなさい。別に携帯電話を使いこなすために無線工学とか必要ない。それと同じで微分とは何かということについては知る必要がない」と書いてあるんですよ。
出口  本当に意味のない勉強してますよね。
佐藤  ええ。僕は、そこでポイントになってくるのは、宗教の問題っていうか、超越性の問題だと思うんですよ。
出口  ほう。
佐藤  例えば、なんで論理がヨーロッパであんなに発展したか。これは明らかにユダヤ、キリスト教の影響なんです。要するに、キリスト教の神様の趣味っていうのはジェノサイド(人類抹殺)ですから。ジェノサイドにしてやるという形で、すぐ怒るんですね。そうすると預言者が出てきて議論すると。それで、今までのところ、人間と神様の議論は百戦百勝で人間が勝っているんですよ。そうじゃないと人類は滅ぼされていることになっているんですから。そこでいろんな屁理屈とかを見つけてくると。
  だから、論理っていうのは人類が生き残るために不可欠だ、という感覚が、ユダヤ教社会、キリスト教社会にあるから、必然的に理屈とかが発展するんですよね。こういう感覚が、結構外交の世界で、あるいは検察に捕まった時にも役立ったんです。
  結局、文章を書いて文字によって、生き残るか死ぬかそこで決まるわけですからね。
出口 面白いですね。日本人にはそういう感覚はありませんからね。
佐藤  ただ、日本人というのは、文字を大切にする民族だと思うんですよ。最近ツイッターが流行っているのにしても、やはり、政治家や作家など、いわゆる指導的な立場にある――威張っているとか金があるとかじゃなく中立的な意味での――エリートたちのツイッター率が異常に高いのは、僕は、日本の短歌の伝統に関係があると思うんですよね。
出口  短歌ですか。
佐藤   それで、つぶやきはすぐに終わり、リツイートされますよね。そうすると、これは連歌の形式だと思うんですよ。終わってみた後に気がついたら、そこのユニットでなんかの意味がある。そういう文化が埋め込まれているのではないでしょうか。しかし、それだったら和歌とか連歌とか長歌とか、そちらの伝統に戻った方がいいと思うのですが。
出口  なるほど。
佐藤  また、ちょっと飛ぶようですが、我々はリズムとして五・七・五・七・五・七、あるいは五・七・五・七・
  七、あるいは新体詩だったら七・五・七・五のリズムがあるわけじゃないですか。
  しかし、沖縄――琉歌とか、沖縄民謡というのは、八・八・八・六なんですよ。五・七・五・七・七じゃ ないリズムなんですよね。そうすると、沖縄との問題なんかも、リズムが違う人たちなのだから、これは なかなかかみ合わないと。
  このような、音韻や和歌などのリズム・感覚の違いについても、本来気づかないといけないはずなんですよね。
出口 うーん、なるほど。
佐藤  僕は、そういうことに気づくか気づかないか、ということが、実は勉強の中ですごく重要なことだと思う んですよ。
  また沖縄の話に戻りますが、水戸黄門は、もうどれくらいやっていますかね……テレビで。
出口  僕が子どもの時からやっていましたね。
佐藤  すると40年近いですよね。あれ、各都道府県全部行っていますよね。でも、沖縄だけ行っていないんですよ。
出口  そうなんですか。
佐藤  これは、沖縄初の芥川賞作家の大城立裕さんが、『休息のエネルギー』というエッセイの中で言っているのですが、東京のキー局が水戸黄門を沖縄に持ってくるという話があった。しかし、沖縄のローカル局が無理だと言って断った。
  要するに、最後の印籠を出すときに、「この印籠が目に入らぬか」と言うと、沖縄では、方言で「くれ、ぬーやがー(それなんだ)」となってしまうと。
出口  ええ、通じないんですね。
佐藤  どう考えても、沖縄の人たちは薩摩の支配までは知っていますけれども、その背後に江戸幕府があることを知らないんですよ。
  話の流れとしては、助さん格さんともみ合いをしますよね。町の者たちとも。その、想定される町の者たちって琉球空手の達人ですよね。そうすると助さん格さんが勝つっていうシナリオにならないんじゃないかと。そうなると、脚本が書けないと。
  ただ、ここまでだったら笑い話なんですよ。しかし、もう少し考えてみると、水戸黄門に権力を与えるのは江戸幕府ですよね。その江戸幕府だって、二条城の接見の間に行くと、一段高いのは朝廷の勅使席です。
  要するに、沖縄は天皇信仰がない日本の領域です。そういう所を日本は包摂しているんだっていうことを考えた場合に、沖縄は、やはり特殊な対応をしないといけない。これは異なる神話共同体だと。
出口  そうですよね。
佐藤  すると、古典や歴史、案外そういったことを噛み合わせれば、普天間問題なんていうものも、こんな愚かなことをしないでも、もう少し軟着陸の方法が見つかったと思うんですよ。
出口 確かに本土の論理とか価値観で、すべてはかっていますから……。
佐藤  それで、出口先生の書かれたものを見ると、僕はルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインを思い出すんです。
  要するに、本当に大切なのは語り得ないことの世界なんだけれども、語り得ることの世界は徹底的に理詰めでやっていかないといけないと。そこの世界のところに、いきなり超越的なものをもってきたらいけないんだと。ですから、出口先生の感覚に非常に感銘を受けたのです。この感覚というのが、すごく優れていると思うんですよね。
出口  ありがとうございます。
佐藤   大学入試の問題っていうのは、語り得る世界の中のものが基本的に出る。だからその中の解析をきちんとやっていく。そしてそこでは、情緒とか、「私はこう思う」という、神々の戦いみたいなものはもってきてはいけないんだと。この訓練を受けておくか受けておかないかっていうのは、すごく将来において、本当の宗教とか、本当の信仰とか、本当の超越性を知るために重要だと思うんですよ。
出口  なるほどと思います。僕自身はもともと文学青年出身で、割と見えない世界が好きで、小説家にもなろうと思って、小説も書いていますし、宗教にも非常に興味があって。ただ、もし宗教を語るとしても、やっぱり徹底して論理を武器にして語りたいんですよ。
佐藤  ええ。
出口  で、その辺は佐藤先生とすごく共鳴するところがありまして。
  ただ、どうしても今は、宗教でも「信じる者は救われる」っていう世界……。
佐藤  あるいは、ちょっと加工し直した、スピリチュアルみたいな形で。
出口  そうですよね。
佐藤  超越が早すぎる宗教って、インチキですよね。
出口  おっしゃる通りだと思います。僕は、ある程度までは論理的に全部説明がつくはずだと、本当に思っているんです。最後の最後のところで超越ということもあるのかもしれませんけれども。
  でも、そこに至るまでに最初から何も考えずに、ただ信じる者は救われるというのは、僕は嘘だなと思っていまして。
  だから、文学でもなんでも、ある程度論理っていうことでずっと攻めていって、そのうえで攻めきれない時に、初めて次の道があるわけであって。なのに、その考えるっていうことを、最初から思考を停止した中で、物事を全部決めてしまっているっていうのが、今の日本社会じゃないかな、という気はするんですよね。 
佐藤  本当にそう思いますよね。ですから、早いところで、命がけの飛躍をしないといけないはずなのに、それが命をかけずにすぐに飛んじゃって。それだから、本当に重要なところでもう飛ぶ力がないっていうような感じがしますよね。
出口  そうですね。