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国語はセンス? 「話せばわかる」ためのルール 論理と数学、そしてメディアリテラシー
和田秀樹 出口汪 画像

“国語に対する誤解の根源
和田  私は元々理系で、その上、心情読解問題が苦手ということもあり、正直、昔は国語を重視していませんでした。『受験は要領』という本の中で、「国語は少女漫画でも読んでいたらいい」というように極めてさらりと流したほどですから(笑)。
 しかし、最近の若者たちと接していくうちに、彼らが「国語」という科目ができないどころか、「歴史の教科書も読めない」という実態がわかってきたのです。東京書籍で物理の教科書の編集委員に選ばれた際も、現場の先生から「生徒が物理の教科書を読めない」と伺いました。 そういうこともあって、ここ10年ぐらいの間でしょうか、論理的なものの読み方・考え方の重要性に急速に関心を持つようになってきたのです。
出口  そういえばこの前、苫米地英人博士と対談した際も、「自分が高校の時に教えられたのは、現代文ではなくて現代文学でした」と、同じようなエピソードを伺いました。
 昔はそういう時代でしたね。僕がこの仕事を始めた頃は、「国語という科目は、やってもやらなくても成績は変わらない」と、頭の良い子ほど思っていたのです。当時は方法論がありませんでしたから、事実その通りだったと思うんですよ。
和田  かつてはね。
出口  ええ。文学と混同されてしまったり、あるいは、英語・数学は、意識して学ばなければ絶対に解けるようになりませんが、国語は「日本語だから普通に文章が読めて話せる以上、特に意識して学ぶ必要はない」という風潮が常識でしたからね。
 ですので、僕が最初に「現代文は論理だ」と言った時は、多くの国語講師からバッシングを受けました。
和田  そうなのですか。
出口  はい、すごかったですよ。詐欺師呼ばわりされたり、「論理であるならば、その場で全部解いてみろ。満点が取れるだろう」という風に詰問されました。
 考えてみれば当然ですよね。今まで国語とは、教養であるとか、センス・感覚だと教えていた先生方にとってみれば、「国語は論理だ」ということになれば、自分たちが今まで教えてきたことが全否定されることにつながるわけですから。だから、驚くほど反発がありましたね。
和田  でしょうね。「数学は暗記」だと言った私も、ものすごく反発を買いました(笑)。 私たちの時代でも、「英語ができるのに、国語ができないのはおかしい」等という声もありましたが、英語は少なくとも英文学ではありませんよね。
 例えば、英語の問題で心情把握をさせられることはまずありません。英文解釈にしても、「ここで使われている関係代名詞がどこにかかっているか」、というようなことを解釈と呼んでいたわけです。ところが、国語の場合は本当に“解釈”だったものですから、当時の私たちは困惑しましたね。
 もう一つ、国語コンプレックスの理由としては、実は林真理子先生をはじめ、たくさん小説家の友達もいるので、バレるとまずい話なのですが(笑)、あまり小説を読むのが好きではなかったのです。
 そうはいっても、新聞は小5ぐらいからきちんと読んでいましたし、小2や小3のときは、百科事典を読むのが好きな変わった子でした。ところが、いざ国語になるとできませんでしたね。
 そのようなことがあったものですから、国語に対して誤解を持つ方の気持ちも分かるのです。例えば、子供が中学受験で国語が苦手ならば、「ああ、私と似てできないんだわ。こんな科目は勉強してもできるようになる訳がない」と思ってしまう親御さんは、今の時代でも、とても多いのではないかと感じています。
 そういう意味で、出口先生には、学校の先生だけではなく、親御さんの持つ国語への誤解も払拭していただきたいと思いますね。
出口  ありがとうございます。
いまの大学生の論理力
出口  和田先生もご存じのように、現在の日本の学生は、このままいったらどうなるかと思えるぐらい、本当に学力が落ちてしまっています。僕らより上のいわゆる全共闘世代は、国語をやらなくても、マルクスとか吉本隆明といった非常に難解な文章を読み、なおかつ、難しい言葉を振り回して議論をしていました。そこである程度、論理的な思考力というものが鍛えられていたと思うのです。
 今の若者はそういう難しい文章は読まないし、議論もしない。文学を好まず携帯小説を読み、そしてゲームやネット三昧です。もちろん、それらが悪いのではありません。「論理的な訓練をする場が全く無くなってしまっていること」この状況そのものが、現代社会が抱えている大きな病理、危機的状況ではないかと思うのです。
和田  おっしゃるとおりですね。例えば、大学生が新聞を読まなくなったと言われ、しばしば「ネットで新聞を読んでいるからだ」と片づけられていますが、それは認識として甘すぎると私は考えています。
 日本と世界の大学生の違いを申し上げますと、日本の大学生は基本的にメールやネットにおいて、携帯電話を使いがちです。 一方、民度のかなり遅れた国とか、1人当たりのGDPが相当低い国であれ、基本的に大学生と名のつく人たちならば――アフリカの貧しい国なら、ひょっとしたら人口の1%も大学に行ってないかもしれないけど――少なくとも大学に行っている人間はパソコンを使うわけです。アメリカにおいてもパソコンが主流です。 携帯をメインに使うのは日本の大学生だけなんですね。例えば、私も今、アルバイトで東大生をたくさん雇っていますが、東大生でさえ「アドレスを書いてください」と言うと、携帯のメールアドレスを書いてくれるわけです。そういう意味でも、長い文章をまともに読むことにあまり慣れていないんですね。
思考する際に必要なこと
和田  中学受験で面白いと思うことがあります。国語は当然、全国で入試科目として扱われています。一方、社会科は原則、東日本のみ入試科目として存在するのです。このことが結構、国語の学力に差をつけるんですね。しかし、西日本はない。私が灘中を受けた時も国・算・理だけで、社会はありませんでした。
出口  そうですね。
和田  正直、単純暗記が苦手なものですから、「社会科がなくてラッキー」だと思って受験したのですが(笑)。
 ところが、入試に社会科があるのとないのでは、実は大変な違いを生じることに最近気がつきました。中国地方の進学実績の高い中学に講演に行った際、国際社会や地域社会の話とからめ、「勉強しないとこのままだと、貧乏になるよ」という講演をしたとき、あまりピンと来ていないように感じました。
 中学校の先生も「いや、うちの学校の子供たちにはちょっとまだ難しいかもしれません」とおっしゃるので「あれ、新聞くらい読んでいませんか?」と聞いたら、「読んでないんですよ」とおっしゃいました。しかし、東京の中学受験生であれば、社会科が受験に出るから、みんな新聞をある程度は読むんですよ。
 このように新聞を読む習慣は、中学入試の視点で言うと、国語のためではなく、社会科のためなのですが、その習慣があるかないかだけでも、これほどまでに理解力が違うのかと驚きましたね。
出口  やはり、何もないところでモノを考えることはできません。まとまった文章を読んで、それを理解したときに初めて、我々はそれについて考えることができるのですよね。
和田  おっしゃるとおりですね。
出口  現代の学生は、まとまった文章を読むこともなければ、先生がおっしゃったように、ほとんど携帯メールで済ませてしまいます。ですから、絵文字で自分の気持ちを伝える、その程度のコミュニケーションに陥りがちですよね。
和田  そうですね。私達の頃であれば背伸びをして、高校生の分際でヘーゲルを読んでいたり、西田幾多郎で考えてみたり……そんな感じの雰囲気でしたよね。
 そこまで見栄を張ることもないと思うのですが、例えば『高校生のための経済学入門』(小塩隆士著・ちくま新書)という本について、「非常に出来が良いから大人も読んだほうがいいよ」と、私はよく人に勧めているのですが、それさえ普通の高校生にはなかなか読めないのです。
出口  読めないから、面白くなくなり、さらに読まなくなるという悪循環ですね。