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国語はセンス? 「話せばわかる」ためのルール 論理と数学、そしてメディアリテラシー
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テレビは“振り込め詐欺”?!
和田  また、私が非常に危険だと思うのは、テレビに出たとき、たった1分のコメントでさえ、必ず「長い」と言われることです。
出口  そうですね。
和田  1分のコメントでも「長い」のであれば、論理的に話すために例示するにしても、1つしか挙げられません。しかし、例示が1つか3つかでは、話の広がりがまったく違いますよね。「その可能性もあるけど、この可能性もあります。さらに、こちらの可能性もありますよ」という話ができないから、1対1の二元論的な、非常に即時的な物の見方を強いられるわけですよ。
出口  そうですね。テレビの論調も非常に危機的な状況だと思います。その理由の1つが、やはり、きちんとした論理的訓練を日本人が受けていないことにあるのでしょう。
 おっしゃられていたテレビのケースでたとえてみましょう。
 まず論者が主張したいことがある。しかし、これはあくまでも自分の考え・意見であって、どんな正しい意見であっても、主観にすぎません。
 そして、主張を補強するために論者は具体例を使います。しかし、その具体例は客観的な事実でないと困るわけです。
 当然、主観と客観とをきちんと区別して議論をしないと、議論にさえなりません。
和田  おっしゃるとおりですね。
出口  しかし、テレビでは、自分の意見と客観をごちゃまぜにしがちです。自分の個人的な意見にすぎないのに、たった1つの具体例をして、さも真実のような説明の仕方をしていたりします。受ける側もそれに対して無防備で、主観か客観かの検証をすることもなく、そのまま丸ごと信じ込んでしまう。その結果、その情報を例えば「むかつく」とか「微妙」とか、本当にワンフレーズで処理してしまう。そういう意味では、テレビの悪影響は強いと思うんですよ。
和田  テレビというのは、言っては悪いのですが、それこそ「振り込め詐欺」かのごとく思える時さえありますね。
 ひどい言い方に聞こえるかもしれませんが、振り込め詐欺が成立する理由は、相手に考えさせる時間を与えずに、「その日のうちに振り込みなさい」と脅すところにありますよね。家族や第三者に相談をしたり、確認の電話をかける時間を与えたら、その詐欺は成立しなくなるわけですよ。
 ところが、今、テレビ的に求められている頭の良さというのは、すごくそれに似たところがあるのです。例えば国会質問でもそうなのですが、「そのことについては資料がない」とか、「統計のデータを調べてからお返事をします」と言ったら、袋だたきに遭ってしまうわけでしょう。
 議論の際、自分の主張の根拠やデータが曖昧だと感じたら、今のご時世であれば、ネットで調べたらすぐ確認できるわけです。ところが、テレビの世界ではそれをする人間の方が愚かであるように思われてしまいます。相手の感情的リアクションを上手に誘導し納得させてしまう、とっさの切り返しができる人ほど賢いと思われてしまう。
出口  そうですね。
和田  これは論理の世界とは全く違うことなのです。 テレビ的に賢い人たちは、相手にある種の感情的な反応を起こさせるのが大変上手で、「俺もそう思う」「わしもそう思う」と言わしめてしまいます。
 だけど、「わしもそう思う」は、論理的に納得したのではなく、感情的に納得しているだけ、というパターンが圧倒的に多いと思うのです。
 ところが、感情的に納得させるだけの人がすごく賢い人のように思われ、あげくの果てに政治家になってしまう。あるいは、この人に応援された人が当選してしまうという……。
 これはもう、テレビによって、国民全体が振り込め詐欺にひっかかって投票行動に出てしまう、あるいは今で言えば風評被害を作ってしまう、といった状況が引き起こされているとも言えるのではないでしょうか。論理力のトレーニングを受けてないがゆえに。
見過ごされてきた学問の本質
出口  おっしゃるとおりですね。同様の危機意識を僕も抱いています。
 そういう日本にしてしまった最大の戦犯はと言えば、やはり教育だと思います。そしてもちろん、英語も数学にもいろいろ問題点はあるのでしょうが、一番その中で罪が重いのが国語教育だったのではないかと思うのです。
 やはり知的な活動をするためには論理力が絶対に必要です。和田先生は先ほど「単純暗記が苦手だ」とおっしゃいましたが、それは脳の機能からいうと至極当然だと思います。
 論理的に、体系的に意味付けして整理・理解するからこそ長期記憶が可能になるわけであり、そして、論理的に理解しているからこそ、その記憶を使いこなせるようになるわけですから。
和田  おっしゃるとおりですね。
出口  そしてさらに、その記憶事項を使っていくうちに反復して習熟する、というのが、知的活動のサイクルだと思うのです。そうやって我々は物を考えたり、文章を読んだり、問題を解いていく。しかし、教育界では記憶から論理が切り離されてしまって、ひたすら単純記憶することを強いられてしまっている。
 僕は珍しく、ゆとり教育そのものに対しては、賛成の立場なのです。ただ、文部科学省のやらせ方に間違いがあったと思うんですよ。彼らは情報を減らすこと、イコール「ゆとり」だと考えた。ということは、「教育」イコール「分断された知識・情報」としてしか文科省が捉えていなかったという証しです。
 ですから、「学力低下だ」と、世論からかまびすしく言われたら、「では、覚える情報量を増やせば良い」と方針転換したのです。そして、そのたびに現場は混乱してしまった。残念ながら、学問や勉強の根本がわからない人たちが、制度をいじり回しただけに終わった気がしましたね。