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国語はセンス? 「話せばわかる」ためのルール 論理と数学、そしてメディアリテラシー
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テレビは“振り込め詐欺”?!
和田  私自身は、人間には発達段階があると考えています。例えば、論理的教育が本当に9歳の児童のためになるか、ということに関しては、検証の余地があると思うのです。少なくともある時期までは、論理よりも単純暗記に適していると考えていますので。
 しかし、その9歳の壁を子供が越えると、論理的思考――例えば、原因と結果の関係性だとか、あるいは根拠を求めること――ができるようになってきます。そういった年代の子供たちに対して、論理的トレーニングが十分なされていないことについては、私も危機意識を持っています。
出口  先生が今おっしゃった通りですね。よく誤解されるのですが、僕は、単純暗記や徹底反復について、全く反対していないんですよ。
 問題は、人間の発達段階の全体像を俯瞰して、何をその年代に与えたら良いのかを考えることを放棄していることにあります。極端な言い方をすれば、「勉強とは暗記することだ」と思い込んでいる指導者もいる。
和田  おっしゃるとおりですね。
出口  発達段階の最初の基礎学力とは、僕は言語だと思うのです。言葉を使って物を考える以上、知的活動は言語抜きにはできません。そして、言語の習得に従って知的世界は広がっていきます。ですから、言語の習得をまず徹底すべきだと思うのです。
 算数の計算も、数学の世界でいう“言語”だと考えています。計算もできない人が、数学で物を考えることはできないわけですから。
 その基礎部分を否定して「さあ、物を考えよう」というのはナンセンスですよね。
和田  そうですね。私は子供を成城学園にやっていましたが、成城って、小学1年生のときに算数を学ばないのです。国語――物語の読み聞かせみたいな時間を、週に8時間ぐらいやるのです。
 成城は澤柳政太郎が作った非常に実験的な教育で有名な学校です。小学校からだんだん伸びて、旧制高校にまでなった学校で、旧制高校の附属で小学校を作った学校じゃないんですよ。
 子供を中学受験させたのは、成城の教育が嫌いだったからではなく、成城で得た、本を読んだり、物事を考える教育にプラスアルファして、一般の中学受験教育をさせた方が、多分、子供の発達のために良いであろうと考えたからです。
見過ごされてきた学問の本質
和田  私自身の教育観を申し上げますと、まずは、出口先生がおっしゃるように、日本語でまともに考えられる能力、少なくともまともな情報を収集する能力を得ることが最も重要だと思っています。
 その次に、僕は教育とは欲張りであればあるほど良いという考え方を持っているのです。 例えば、ハワード・ガードナーという人は「多重知能」という考え方をしています。わかりやすく申し上げると、人間には8つの知能があり、言語能力や数学能力だけではく、音感的知能なども含めてすべて知能である、と定義しているのです。
 日本人は、「勉強ばかりしていると、性格が悪くなる」であるとか、「勉強ができるやつはスポーツができない」などと、それらがトレードオフの関係であるかのような錯覚を持ちがちです。しかし、昔から言われる「文武両道」のように、勉強もさせるし、スポーツもさせる。それに越したことはないわけです。
 ガードナーも、「8つの知能が全部発達するに越したことはない。ただ、それが無理だったら、その中で幾つか取り柄を伸ばせばいいのだ」と言っています。
 また、IQに対してEQ(心の知能指数)という概念がありますよね。IQが高く、ハーバードのビジネススクールを出ても、社会に出て成功できない人がいることから、「その人たちに欠けている能力は何だろう」という研究をした、その成果がEQなんですよ。
 彼らの考え方としては、ハーバードのビジネススクールに行っているような人間に、EQの教育を足してやれば、鬼に金棒だろう、という考え方なんですね。
出口  EQは教育で習得できるものなのでしょうか。
和田  EQ概念の主導者の人たちは、それをビジネスにしたいから、という理由もあるでしょうが、可能だと主張していらっしゃるようです。
 いずれにせよ、他人の気持ちを読み、ある種の共感能力を持つことであるとか、自分の感情を知り、モチベーションをつける方法を習得することについて、全く無自覚でいるよりは、自覚した方が良いでしょうね。
見過ごされてきた学問の本質
出口  昔は一握りの人間が物事を決定した時代ですから、その一握りのエリートはすごく勉強したと思うのです。しかし、現代は昔と違い民主主義の時代です。すべての人間が、この複雑な現代社会から正しく情報を得て、正しく理解をし、そして正しい判断をしなければならない義務があるのです。そして、その義務を全うできるようになるためには、教育のあり方そのものを考えなければダメだと考えています。
 自分のことを申し上げて恐縮ですが、若き日の僕は予備校講師として、肉体を使って自分の信じる教育を目の前の生徒にやっているだけで良かった。しかし、肉体には限度があります。有名になるにつれて、テレビあるいはラジオを使って、より多くの人に自分の信じる指導法を伝えるようになっていきました。
 そして、このように多くの生徒と触れ合う中で、間違った国語教育を、皆がずっとやり続けている状況に対し、僕なりに強い危機感を持つようになっていきました。
 僕だけではなく、一人でも多くの先生たちが、目の前の生徒に対してきちんとした教え方をできないと、日本の教育は変わらないと。
 文科省もいろいろ考えてやっているだろうけれど、現在の国語教育で、本当に論理力のある子供たちを輩出しているかといったら、そうではない。
和田  それはそうですね。
出口  結局、システムそのものを変えていかないと、いくら勉強時間を増やしても根本的な解決にならない、という危機感が芽生えてきたのです。
 そういった視点から、僕の限られた肉体で目の前の生徒に話をするだけよりも、システム教材を作って、なるべく多くの先生方に、きちんとした論理的な考え方を子供たちに伝えてほしいという考え方に変わっていきました。それが『論理エンジン』なのです。
 今回、「論理文章能力検定」という検定試験を始めるのも、人間は、入試や中間・期末の試験があるからこそ、勉強すると思ったからです。間違いなく、試験がないのと、試験があるのとでは、勉強の仕方が全然違いますから。
和田  それは正しいと思います。私は心情読解問題が苦手で、最後までできるようになりませんでしたけど、やっぱり試験があるから勉強したのです。そして、心情読解力より論理力の方が、はるかに社会に出てから実際に役に立ちますからね。たとえ「論理文章能力検定」対策としての勉強であったとしても、子供にとっては、将来に役立つ非常に大切な勉強の機会だと思いますよ。