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国語はセンス? 「話せばわかる」ためのルール 論理と数学、そしてメディアリテラシー
出口汪 画像和田秀樹画像

数学が与える論理性とは
出口  やはり日本の教育の根本的考え方をしっかりさせなければなりません。基礎学力育成という視点で言うと、先ほど申しましたように、まずは言語の習得です。日本語のような自然言語に限らず、数学という人工言語も含めた徹底した言語の習得が第一ですね。 そのためには、なぜ言語を習得しなければならないかという理由を、子供たちにきちんと伝えて、意識づけすることが一番大切です。
 人間がすべて言語によって物を考えること。そして、言語を媒介にすることによって、はじめて自分の感情を自分で認識できるということ。さらに、それらを相手に伝えることを可能にするのも言語であるということ。これらを体系的に伝えていく必要があると思っています。
和田  なるほど。
出口  そして繰り返しになりますが、「論理」を習得しないと、何を学ぶにせよ、ただ知識を詰め込むだけに終わってしまい、決してそれが身につくことはないのです。
和田  おっしゃる通りです。それに関連して申し上げますと、日本人の論理力のなさを補ってきたのが、私は数学ではないかと思っています。
 例えば証明問題などが典型例ですが、順を追って、仮に帰納法で解こうが、演繹法で解こうが、ある種の論理を詰めていかないと数学は解けないようになっています。
 また、ある範囲の中における答えが求められている設問、例えば「XがAより大きい場合」と、「XがAより小さい場合」だと答えが違ってくるような設問だと、場合に分けて考える必要があります。他にも、ある答えを証明するために、反証を一つ挙げるだけで証明になる、であるとか、必要条件と十分条件とを混同させないこととか……。
 そういう意味では、国語が苦手な私にとって、多少なりとも自分に論理性を与えてくれたのは、やはり数学だと思うのです。
 ところが日本の場合、国語イコール心情読解で、数学は国語とおよそかけ離れた世界だと思われています。しかも、多くの私大には、数学が入試で問われない。結局、およそ論理的な考え方を学ばないまま、多くの大学生が卒業してしまっているのではないか、という印象さえ持ってしまうのです。
出口  おっしゃるとおりだと思います。数学の論理は本当に大切です。
 例えば、小学・中学と、算数だ、数学だと言われながら、高校で私立文系志望になってしまえば、数学とは一生縁がなくなる。だったら何のために今まで数学を学んできたのか。膨大な時間とお金を損しただけじゃないか、と思う生徒が多くいます。
 しかし、少なくとも小・中・高の算数・数学とは、僕は言語の習得だと考えています。
 つまり、数学やコンピューター言語のことを、僕は「人工言語」と呼んでいるのですが、その使い方を学ぶのだと。
 これらは絶対に必要な学習です。やはり人工言語を使いこなす頭の使い方も「論理」そのものですから。
数学と国語の論理性の違い
出口  また実際、日本人が国語について間違った教育をずっとやってきたにもかかわらず、論理性の欠如をカバーできたのは、先生がおっしゃる通り、数学でかなり優秀だったからだと思いますね。
和田  やはりそう思われますか。
出口  はい。ただし、数学があれば国語はなくて良いという訳ではないと思うのです。まず、数学と国語の相違点を明確にしておかないと、議論が混同してきます。
 どちらもまず言語の使い方なのですが、数学は「人工言語」です。これに対して、例えば日本語、これは「自然言語」であり、根本的に違うのです。「自然言語」というのは、他者が前提の世界です。一方「人工言語」、たとえば数学は他者のいない世界なんですよ。
和田  そうですね。
出口  自然言語は、自己完結している世界から、お互いに分かりあえないはずの他者に対して伝えたい、だから筋道を立てて表現しようという、ある意味で他者への思いやりの言語だともいえると思います。
和田  なるほど、国語における論理性と、数学における論理性は多少違うのでしょう。 今お話を伺っていて思い浮かんだのは、経済学のことです。日本人って真面目すぎるから、「経済学の教科書に書いてあることは、何でも正しい」と思っている方が多いですよね。 しかし、ほとんどすべての経済学は、二大条件を持っているのです。そして、その条件とは、「人々は合理的な判断をする」、それから「人々は完全な情報を持っている」という前提です。しかし、これらは絶対に存在し得ない条件なのです。
 確かに人々が合理的な判断をし、完全な情報を持っていれば、需要と供給の2つの直線がぶつかったところの値段でしか物を買わないでしょう。しかし、本当はたくさん足りていても、パニック心理になると、物が無くなったり、異常に価格が高騰したりする。それはこの間の震災でも現実化しましたよね。
 要するに国語的な論理力とは、完全な情報、あるいは合理的判断を介さない、ある種のファジイさがあるのではないのでしょうか。人間がやるところの答えは、数学が出す絶対的な答えとは必ずズレが生じますから。
 ところが、もしかするとそこが、従来型の国語教員の「論理なんて要らない。国語は鑑賞するものだ」という考え方の根拠になってきたのかもしれません。
 またそれは、今の日本で多く見られる経済学者たちの、「数字通り、理論通りに絶対いくはずだ」っていう間違った考え方と、どこかで通底しているように思えるのです。
 つまり、例えば経済学者や心理学者というのは、経済や心理事象が、本来客観など存在せず、他者が存在することが前提であるにもかかわらず、あたかも他者がいない、人工言語の「論理」と同じことが起こると信じているのではないでしょうか。
 そしておそらく、「論理的な国語は要らない」という、従来の国語教員の考え方の指す「論理」というのは、その人工言語的な「論理」を指しているような気がするんですよ。
出口  今のたとえはすごくわかりやすくて、刺激的でした。