HOME > 対談・真剣勝負 > 第8回 宮台 真司

アドレッセンス回顧 コミュニケーションと宗教性 3.11で露呈した世界
 
引き受けて考える作法 宮台的革命論 ― 心の習慣を変えるために    

宮台 ここ2年ほど、ヨーロッパ、アメリカ、中国各地に出かけました。どこに行ってもキーワードは〈不安〉です。グローバル化=資本移動自由化で市場や国家が機能しにくくなったのです。
 市場面では、どのみち新興国に追い付かれる既存産業領域で先進国企業が生き残ろうとすると、労働分配率を下げざるを得なくなります。かくして企業が生き残って労働者が困窮します。それを回避するには、新興国が発信できない価値を先進国が発信して新たに市場を作るしかない。単なる成長でなく「産業構造改革を伴う成長」が必要。単なる規制緩和や金融緩和でなく「産業構造改革を伴う規制緩和や金融緩和」が必要。こうした抜本改革が〈不安〉を呼びます。
 国家面では、再配分原資を得るべく所得増税や消費増税や法人増税をすれば、資本流出が起こって逆に税収減となり、再配分が困難になります。にもかかわらず、先進国はどこも高齢者人口増による社会保障費増で青息吐息です。増税を含む税制改革は、〈補助金行政から政策的市場へ〉という行財政改革が伴わないと「焼け石に水」なのです。

 〈補助金行政から政策的市場へ〉は「特措法・特別会計・特殊法人・業界配分」の大規模廃止を意味するので、やはり〈不安〉を呼ぶでしょう。つまり、産業構造改革と行財政改革と税制改革の三位一体を欠いた部分手直しでは、病理状態の延命にしかなりませんが、全面手直しは既得権の大幅移動を伴うので〈不安〉を呼びます。

 市場や国家の機能不全がもたらす〈不安〉は、共同体の空洞化によるホームベース喪失と、過去の趨勢を用いた予想が役立たないことによる将来の不透明化によって、倍加されます。そして〈不安〉を埋め合わせるべく、排外主義的運動や原理主義的宗教への〈依存〉が蔓延するでしょう。つまり全体的に〈感情のポリティクス〉が拡大するのです。
 〈感情のポリティクス〉は、経済面では〈不安のマーティング〉を有効にし、政治面では〈不安のポピュリズム〉を有効にします。かくして巨大なセキュリティ利権や政治権力利権が〈感情のポリティクス〉に巣食います。その結果「民主政であるがゆえに、民主政がもたらす不合理を改善できない」という不条理が生じます。
 たとえばアメリカの場合、ブッシュ以降の大幅減税が財政悪化の主要因でした。有効な手段は増税と公共事業だけだと判っているのですが、増税しようとすると「苦しいときに国民を苦しめるのか」と大統領が落選し、公共事業をやろうとしても「そんなことに金を使っている場合か」と落選する。かくして増税も公共事業(福祉)もできないのです。
 どこの先進国も似た問題を抱えます。グローバル化がもたらした〈不安〉ゆえに、人々は感情的になりがちで過激な行為に加担しがちです。でも本質を理解する必要があります。資本移動自由化により新興国が追いついて来る中で、先進各国は、産業構造改革と行財政改革を迫られていて、流動化や格差化が一時的に不可避なのです。
出口  グローバル化が現在のように進む前、たとえば全共闘の学生運動が潰されていったような時代には、既成の権威というものは変えようがないぐらい巨大なイメージがありましたよね。あれだけの学生運動の盛り上がりは、日本は変わるかと思わせるほどのものでしたが、結局は何も変わらなかった。全部廃れて、当時の人の多くは逆に体制側に回ってしまいました。そして、やっぱり世の中は変わらない、変えようがないんだ、という虚無感が広がったと思うのです。
 グローバル化が進んでからも、やはりどこかで国家という、巨大かつ不動の存在が想定されて、まだ多くの人はそれを頼りにしていたと言えるかもしれません。
 ところが3.11、そしてその後の事故で、巨大に見えていたものは実は空っぽだったことが痛いほど分かってしまった。政治も経済も、安心できる基盤や土台など本当は無く、何も頼りにできないんだと、国民は改めて思い知らされました。震災を境に実状が急変したわけではないのだけど、人々がようやくそれを認識した、自覚したという意味で日本は変わった。
 大きなチャンスだと思うんです。新しいメディアの躍進もあって、いろんな意味で時代が急激にある一点に向かって収斂しているような感覚があるんですよね。
宮台  そう。昨年の拙著『宮台教授の就活原論』でも触れましたが、新しく職業人として仕事生活を始める人々が勘違いをしています。最大の勘違いは、ホームベース抜きで「仕事の自己実現」ができると思い込むことです。ホームベースとは出撃基地であり帰還場所です。本拠地という翻訳でもかまいません。
 中国系やユダヤ系の人々がグローバル化に強い理由は、血縁主義ゆえにホームベースの力が抜きん出るからです。
 第一に、世界中に拡がる血縁ネットワークでリソースをシェアするがゆえに強い。
 第二に、埋め込まれ背負うがゆえに動機付けが圧倒的に強く、失敗しても戻れる場所があるので危険なチャレンジができるのです。
 日本には琉球を除いて血縁主義が全くありません。血縁の有無に関係なく「去る者日々に疎し」です。日本での絆の源泉は「一緒に長くいること」です。これは文化ですからどうにもなりません。でもレジデンスやハウジングを重視する定住化政策を通じて「一緒に長くいること」を可能にする環境管理をする方向があり得ます。
 そうした政策が動くには時間がかかります。それまでは、出撃基地であり帰還場所でもあるホームベースを作るのは、各自の努力です。日本では馬鹿な親どもが、「ホームベース形成能力」に必要なグループ学習やグループ遊びの経験を軽視し、学童期の子供を燃え尽き症候群や孤独死や無縁死の方向に追いやっています。
 そして、こうした馬鹿な連中が、年金保険料の支払と給付の世代間格差についてギャアコラほざきます。どの先進国よりも共同体空洞化を進め、私的扶助(私助)を全面的に公的扶助(公助)に置き換えざるを得ない状況をもたらした以上、世代間格差は不可欠で、イヤなら私助を可能にする共同体を建立する以外にありません。
 僕は母校の麻布中・高に何度か講演に出かけています。聴衆は親と子と教員ですが、こういう呼び掛けから始めます。
 「お母さん、お父さん。あなたのお子様はモテますか。人生の幸いにとって、多少偏差値が上の大学に入れるか否かより、モテるか否かの方が、ずっと大切ですよ。これは価値の問題じゃなく、現実の問題です」と。
 どういう意味で現実の問題か。麻布なので、〈ホームベース問題〉に加え、〈一緒に仕事をしたい問題〉を話します。企業の人事担当を大勢知っていますが、最近目立って増えてきたのが「一緒に仕事をしたいヤツを採る」という方針。
 当然です。会社仕事は全てがグループワークだからです。あなたのお子さんは好かれますかと。
出口  やはり教育の功罪はすごく大きいと思います。
 僕は言語の問題をいつも考えていて、先ほど政治も〈感情のポリティクス〉になってきているとおっしゃいましたが、それは論理的な言語の使い方を教えて来なかったのが一因だと思うんです。みな論理的言語ではなく、感情に訴えかける「感情語」しか使えなくなってきています。
 だから感情語のワンフレーズ政治がウケたり、マスコミもヒステリックに右に行ったり左へ行ったりと極端に流れてしまう。戦争中に「非国民」のような言葉で、みんなが流されていたときと全然変わっていないんですよ。歴史から何も学んでいない。教育も例外なく、今までと同じでは通用しないと思います。
宮台  そう。出口さんが先におっしゃった「偉そうに見えたヤツがこんなにヤワなのか」という話につながります。極東国際軍事裁判で、A級戦犯の方々が全員「自分にはどうにもできなかった」「今更やめられないと思った」「空気に抗えなかった」と証言しました。幼な心に「こんなショボイ連中がエリートだったのか」と思いました。
 麻布ではこうも言います。「お母さん方、こういうショボイ連中をエリートだと思い込んで、もしや結婚しておられませんか。お父さん方、こういうショボイ連中をエリートだと思い込んで子育てするような方と、もしや結婚しておられませんか。そうであるなら完全に手遅れです」と。「僕はそうは育てられませんでした」と。
出口  軍人の命令に従っていた国民が、その権威が崩れたのを目撃してしまった当時と、3.11以降の日本は、一般市民が「権威のある人たちってこんなもんだったのか」と感じてしまったという点では非常に似通っている気がしますね。
宮台  もう一つ大切な問題があります。日本では「幸せ」概念がちゃんと理解されなくなりました。「幸せ」は便利や快適とは違います。宗教学の言葉を使えば、便利や快適は〈内在〉ですが、「幸せ」には〈超越〉を含みます。つまり便利や快適は、単なる機能だから入替え可能ですが、「幸せ」には入替え不能な唯一性が含まれていなければなりません。
 これは先にお話しした「誰も見ていなくても、神が見ている」という、〈見る神〉と関連します。「自分としての自分は満足だが、神を裏切っていないか」という、自分の視座と神の視座の二重性に関連するのです。
 幸福度調査という名前で、国民のニーズ(欲望)に市場や行政がどれ程応えているかを調べているのは日本だけです。しかし、人々のニーズにどれだけきちんと応えているかを調査するだけでは、たとえ公正や正義を含む問題設定だったとしても、不十分です。それは、人々のニーズに公正に応えた街づくりをするとデタラメになる事実から検証できます。
 いま申し上げたようなことは、アルセル・ホネットや、ベアード・キャリコットが古くから注目しています。
 ホネットは「パトロギー的な批判」という言い方で、我々のニーズ(欲望)自体が間違っている可能性こそが批判されるべきだとします。むろん欲望批判の欲望も間違っている可能性があるので、批判は「目から鱗」的な「地平を切り開く」ものでなければいけません。そしてここでは「指し示し不可能な全体性」が前提とされています。
 「指し示し可能な全体性」の概念を日本の京都学派から学んだのが、環境倫理学者のキャリコットです。功利(欲望)に注目するにせよ、正義(義務)に注目するにせよ、人を主体だと見做した時点で環境開発は既に間違っている。場所自体を一つの主体と見て、人と自然と人工物を含む場所という、生き物にとっての適切さを考えよ、と。
 人は〈世界〉と無関係に幸せになれず、しかも〈世界〉は人の視座には決して現れません。短く言えば、人の幸いは〈世界〉の未規定性と表裏一体です。そのことを最大限重視する主意主義の思考伝統は既に2500年以上の長きに及びます。そうした思考伝統が「右」の本質。「社会が良くなっても人は幸せにならない」と考えます。
 もう一度平たく言うと、本当の幸せは、主観的な満足とは違います。「便利で快適で満足だけれど、幸せじゃない」という言葉遣いがあるでしょう。入替え不可能な唯一の存在として存在できていないからです。
 ソール・クリプキの固有名論が明らかにしたように、入替え不可能な唯一性とは、〈世界〉の唯一性そのもののことです。
 子供をノイズやカオスから隔離して育てようという傾向を含めて、世の中には愚昧な営みが溢れています。そしてその愚昧さを実は多くの方が知っています。
 麻布講演会で尋ねます。「ノイズやカオスから隔離したベスト環境で、子供に東大進学勉強をさせておられるお母様方、あなたが娘さんだったらお子様は魅力的な男性ですか?」と。ほぼ全員がノーです。
 お母さん方は言います。「あらゆる苦難を乗り越えて今の自分がある。そういう殿方がやはり魅力的」と。当たり前じゃないですか。塩抜きの本当の甘みがないように、苦難抜きの本当の幸せはなく、争い抜きに本当の絆はない。それを経験的に知って「ひとかどの人」になります。そういう「モテ」にだけ意味があるのです。