HOME > 対談・真剣勝負 > 第9回 甲野 善紀

身体と言葉の関係性 常識を疑え 切実な思いから学び、生きる時代の到来
「継続は力なり」に甘んじるな
出口  先ほど体調が悪いときに気づきがあったとお話でしたが、それは寝込んでいるときにフッと頭の中で浮かんだのですか。それとも実際に稽古をしていてのことでしょうか?
甲野  稽古しているときでした。
出口  よく「3日も現場を離れると、勘が戻るのに何日もかかる」などと言われますが、それについてはどう思われますか?
甲野  「そうだろうな」と思う一方、離れているから、逆に今までの感覚の延長線上ではなく、新しい気づきが得られるとも思います。リセットするいいチャンスではないでしょうか。

 つまり、毎日稽古しているとつい前日の感覚の上をなぞっていて、昨日の続きを今日もやるという感じになりますから。何日か離れて現場に戻ったときに、それまで自動的に追いかけていたものから離れていたお陰で何か違うところからものが見えるようになります。
 「継続は力なり」は嘘ではないけれど、ただひたすら毎日やっていたら、発想の飛躍や転換は起こりにくいのではないでしょうか。

 私はいまの技を絶えず否定しようと思っていますが、いきなりすべてを否定しても飛躍や転換にならないので、やはりいまできることをやるしかない。
 ただ、昨日の続きから少し離れたときに、「あれ?」というような感覚の新しさ、違う芽が出て来るのを感じたりします。その芽を育てると、意外な気づきなり新しい展開がありますね。
出口  「継続は力なり」について思うことがあります。僕の仕事は、「論理的に考え、書くとはどういうことか」について伝えることですが、論理に精通するために、まずはひとつひとつの言葉の使い方を意識しなければいけません。いわば言葉を分解していくわけですが、そうしてひとつひとつの言葉を理解した後に、さらに統合していく必要があります。生きた文章を理解するには、個々の言葉を知ればいいというような単純な話ではありませんから。

「言葉のひとつひとつを意識して」というと、ひたすらそれだけにかかりきりになるといったことも起きがちですが、ただ繰り返せば論理を学べるかというとそういうことはないわけです。ただ継続すればいいわけではないのです。だからといってセンスに任せているだけでは、単なる独り善がりな理解にしかなりません。

総合的に理解していく。それが習熟だと思いますが、いまの教育は、どうしても「覚えた・わかった」でおしまいになりがちです。でも、覚えてわかったところで、できるかどうかは別の話です。
「Aがわかった。Bがわかった。Cがわかった」で終わらせるのではなく、ABCのそれぞれをわかったならば、それを使って次の新しい段階にどう進むかが大事です。
文章を論理的に読め、論理的に思考を整理でき、論理的に話すことができる。さらに論理的に文章を書く。これらが一体化していないといけませんが、日本の教育には、そういう統合の発想が乏しいのです。
だから「継続は力なり」を強調したところで、実際に使えないと話にならないわけで、それだけに先生のおっしゃっていることに共感します。
  (次回へ続く)