HOME > 対談・真剣勝負 > 第9回 甲野 善紀

身体と言葉の関係性 常識を疑え 切実な思いから学び、生きる時代の到来

出口王仁三郎とは何者か
甲野  私が初めて『大地の母を』読んだのは11巻でしたが、本当にえらい目に遭った人の話がいろいろ出てきました。ロシアのバルチック艦隊の撃滅に最も貢献したといわれた海軍中将の秋山真之も出てきて東京大震災を予言して大変なことになりますね。
 それに大本の布教師として一時活躍しながら、自殺する者、背教者として教団を出て行く者たち、小沢惣祐や宇佐美武吉、飯森正芳、宮飼正慶などの屈折した内面心理が詳細に描かれています。あのお父様の和明先生の筆力は凄いですね。読んでいて「これは教団の内部告発の小説かな」と思いながら、どんどん引き込まれて行きました。
出口  信仰の面からすれば、すごくマイナスのことを書いてあります。だから狂信の怖さを読んでいてすごく感じました。大抵は「自分の信じる神は正しい。だから自分のやることは正義だ」と思い込む。それでむちゃくちゃなことをやっていくわけですが。
甲野  その辺りを『大地の母』は隠さずストレートに書いていて、のめり込んでとんでもない方向に行くような人を描きながら、その人たちのことを「バカだな」で済ませずに、「さもありなん」と思わせるところがあります。だからこそ全体が客観的に見えてくる。
出口  おかしくなっていく人に非常に共感できるので、「人間とは何か」について本当に考えさせられますね。
甲野  そうなんですよね。新宗教について知るには、他のどんな参考書や研究書よりも『大地の母』を読むのが一番良いと思っています。多分私は『大地の母』のセールスマンとしては相当売ったのではないかと思います(笑)。あれを読んでいたらオウム真理教に集った人達もあんな事件を起こさずに済んだのではないでしょうか。
――  先生が武術を志したのは、人間とは何か。運命とは何かという本質的な問いから始まったと聞いています。そうした問いを抱えていた若い頃に『大地の母』を読まれたわけですが、王仁三郎とは何者だろうと思いましたか?
甲野  やはり使命を背負った人だったと思います。何より驚いたのは、やがて自分を裏切るだろうとわかっていながらも、自分の所に集ってきたそういう人たちにものすごい権力を与えて、どんどんその人達のやりたいようにやらせたことです。
 つまり、自分が見た自分の役目を果たすシナリオに向かって驀進していくと同時に、王仁三郎はそれを回避しようとすることも一緒にやるわけでしょう。
 まあ、それが成就しないこともわかっていたのかもしれませんが、それでもあの情熱で多くの人達を引っ張って行くのは本当に凄いですね。
自ら弾圧へと突き進む
出口  若いときに高熊山で修行した際、「神からその先まで全部見せられた」と王仁三郎は書いています。おそらく神に見せられたシナリオに向かって生きていた感覚があった。

 そのときに自分を慕って信じてくれている人が最後におかしくなっていくのも、すでにわかっていたのかもしれないです。

 大本は2度の弾圧を受け、特に2回目のときには、かなりの人間が殺され、投獄されました。自殺したり発狂した人もいます。王仁三郎の身内であり家族、最も愛する人、自分を信じている人ほど過酷な目に遭う。その顛末を知っていながら弾圧を受ける方向へと布石を打っていった。この精神構造は、普通の人間には考えられませんよね。
甲野  そこですね、出口王仁三郎という人がすさまじいと思うのは。あれはとても常人の神経では持たないでしょう。
出口  王仁三郎の当時のいろんな言動を読むと、途中までは天皇や戦争を賛美したふりをしています。そこだけを学者は取り上げて批判するのですが、実は途中からは、「こんなことを書いたら絶対に弾圧されるに決まっている」というような内容をどんどん発表しています。そのあたりのタイミングの見極めも、王仁三郎の中にシナリオがあったからこそではないでしょうか。

 要するに早く捕まっても、遅く捕まってもいけない。「ここぞ」という時に弾圧されるように仕向けた。彼は自らの殉教者としての役目を知っていた気がします。
甲野  そうですね。大本が弾圧されることで日本という国が救われるということに確信があったのではないでしょうか。だからこそ日本は戦争に負けはしても、完全にひどい状態にならないで済んだ。私はどうも、そういう感じがしています。日本全体を救う大義のために、自分たちが、自分の身内も含めて犠牲になろうという考えがあった気がします。
すべては身体を使って行っている
出口  王仁三郎は「天地経綸の主体」といって、人間の役割を明確に打ち出しています。この考え方は、甲野先生の身体論につながるのではないかと思っています。

 どういうことかと言いますと、もし神がいると仮定したとき、神はこの宇宙を造ったわけですから、全知全能ですよね。だったら「なぜ悪人を作ったんだ」という人もいますが、そういう考えに対し、王仁三郎はこういう考え方をしています。「神は、カップひとつ動かすことができない」。

 神は形のない存在です。この三次元の世界の中では、人間が神の代わりにカップを持ち上げない限り、カップは動かない。だからこの天地経綸の主体は人間であって、神に代わって人間が理想の世界をつくる役割を担っているという考え方はすごくおもしろい。
 そういう意味では、人間にとっての身体はすごく重要ですよね。現世の中で身体を持って生まれてきたのは、まさに身体を持たない神に代わって、この世を何とかしなきゃいけなくて、そのために身体を与えられた。そうだとしたら、僕らは身体を粗末にしすぎたんじゃないかなという気もします。もっと身体について知るべきではないかと思います。
甲野  マサチューセッツ工科大学のロドニー・ブルックスという教授が、「人工知能も身体が必要だ」と言ったそうですが、これは人間には身体があるから、できることとできないことがおのずから決まるということでしょう。
 これが頭の論理だけで詰めていった場合は「これもできない。あれもできない」と書きだしていけば膨大な量になって、なおかつそれでも十分な説明にはならない恐れがある。

 ところが身体ひとつあれば、できることとできないことは否応なく決定されてしまうわけです。
 やはり人間のやることは身体抜きではありえない。それが音楽であれ運動であれ、パソコンの操作だって身体を使っているわけです。
 けれども、この「すべては身体を使って行なっている」という視点が、いまの教育には根本的に欠けています。
出口  絵画だろうがスポーツであろうが、文化系と体育系の区別ではなく、「身体を使っている」という共通のカテゴリーの中で捉えたほうがいいのかもしれないですね。