HOME > 対談・真剣勝負 > 第11回 森田真生

〝身体感覚〟を数学で語りたい わかれた世界を繋ぎなおすもの

聴覚で感じる、神
出口  森田さんには2012年8月にラジオ日本「出口汪の平成世直し塾」に出演して頂き、“数学”について、僕が考える “論理”と絡めたお話をしてもらいましたが、その後何かご自身の中で新たな気づきや発見はありましたか。
森田  そうですね、最近自分の中で五感についての「気づき」がありました。人間というのは五感の中で視覚に当たる部分、つまり目をよく使いますよね。僕は活字が身近に無いと落ち着かない、中毒と言ってよいレベルの人間なんです。
 例えばトイレに行く時でさえ、何か読むものが無いと落ち着かないんですよ。携帯も持たずにトイレに入った場合などは、財布からカードを取り出してその文字を読むほどで(笑)、それくらい活字が無いとダメな体質なんです。
 このように中毒と言ってよいほど視覚依存の生活をしているはずなのに、なぜか僕には視覚による記憶がほとんど無いんですよ。
 例えば今、お話しながら僕は出口さんをきちんと見ているはずなのに、家に帰るとおそらく、出口さんの服装や髪型を僕は忘れてしまうと思うんです。でもなぜか声とか、その時の空気感とかは絶対に忘れないんですよね。だから、以前ラジオでお話した時のことを思い出そうとすると、その時の声の響きや言葉のリズムは、すごく記憶に残っていてすぐに思い出せます。でも、容姿についてはあまり覚えていない……。そのようなことが多々あるので、どうも僕は視覚について何かしらの能力が欠如していて、逆に聴覚的な何かが発達しているように思えるんですよ。
 なぜ、今このような話から入ったかというと、例えば神様を表現する場合、言葉による方法や絵など、様々な方法を使って表現しようと試みると思うのですが、僕にとっては昔から神様は聴覚的なものという感じがしていたんです。
 この体験は、数学をやるようになった原点でもあるのですが、幼い頃「自分がいつか死ぬ」という、自分の有限性に気づいてしまって、宇宙の永遠性と自分の有限性のその対比がとても恐ろしくなったんです。その恐怖の中にいる時、音でしか捉えられないような神というべき何かが僕の中で感じられました。その感覚を味わった頃、ようやく自分の有限性への恐怖を克服した気がします。――僕の肉体っていうのはいつか終わるし、この私の意識っていうものはいつか終わるけど、それを超えた、もっと大きなものが存在して、自分はその一部である――という感覚です。それは視覚によるものではなく、どちらかというと聴覚から得られる感覚でした。
出口  そのお話は面白いですね。僕にも似たような経験があって、視覚によるものは、あまり記憶できないんですよ。僕も森田さんがラジオに来てくれた時のことを思い出そうとすると、どんな服を着ていたかというビジュアルの部分はほとんど記憶に無いです。
森田  そうですよね。なかなかビジュアルの部分には意識が向かない。妻が髪型を変えたのに気づかないことなんかもあります(笑)。
出口  僕も妻の髪型の変化に気づかないことは多々あるのですが(笑)、さすがにこれだけ生きていると、さんざんそういったことで怒られてきたので、だんだんと学習してきました。
 話が脱線してしまいましたが、先程森田さんがおっしゃっていた、神とか永遠の世界っていうのは形の無い世界のことですよね。
 おそらく神は形を持っていないだろうし、もし形があるとしたらこの宇宙を作った神は、宇宙と変わらないぐらい大きな存在であるはずだから、人間の視覚で捉えることができないわけです。
 一方で聴覚ではどうでしょうか。おそらく音は、宇宙の中に永遠にあるものだと僕は思うんです。想像してみてください、例えば宇宙が動き続けているなら、それに伴う音があるはずじゃないかと。動くということは、それが伝達されるかされないかに関わらず、必ず音が発生しますよね。宇宙が活動体であるということは、人間に聞き取れるかどうかわからないけれども、動くことであり、音が発生することでもあるわけです。
 ですから、そういう意味では森田さんが自覚として視覚よりも聴覚が発達しているっていうのは、もしかすると幼い時から、そういった宇宙や神のような、形として捉えにくいものに対するアンテナを持っていたんじゃないかなという気がします。
森田  聴覚的なものは分けることもできないし、止めることもできない。境界も無いし、今出口さんがおっしゃったように本当に形が無いものです。でも、なんとなく神というようなものがあるとすると、そういうものなんじゃないかなと思います。
 切り離したり、対象化できたり、一目で見ることができるような神っていうのは想像しにくいですよね。
出口  おそらく神が存在すると仮定すると、一人ひとりの、その瞬間瞬間の中に様々な形となって神は存在し、しかし実体としての形は無いんじゃないかなって気がします。 
レトリックでしか表せないもの
出口  森田さんは、子供の時から神の存在を意識することがあったのですか。
森田  はい、ありました。幼い頃に感じた、聴覚という身体レベルで意識せざるを得なかった感覚と、キリスト教を信じている人が多いアメリカという場、その中で感じる感覚との間にはギャップがありましたね。アメリカにいた頃は、僕も日曜日に教会へ行ったりしていたので、周りの人達が信じていたり、教えられたりしている宗教感覚をある程度知るわけです。その知識として得たものと、自分が身体感覚として持っているものとのギャップっていうのは、常に自分の中にありました。
 その二つのつじつまが合わないことへの苦しみは、アメリカを離れて過ごした中学・高校時代も、自分の中で一つの大きな問題として残っていました。
 幼い頃から、キリスト教の世界っていうものがあるらしいっていうことは教わっているので、知識の部分では、どこかでキリスト教的世界を受け容れてますが、もっと感覚的な部分では、全然違った神の概念を持っています。それをどうやって自分の中で矛盾無くつなげていけるだろうか、という問題意識はずっとありました。
出口  例えば、神のお話だけでなく、死後の世界とかいろいろありますけれども、これは死んでみないとわからない話ですよね。だから、理論として考えようとしても無理な話ですから、本当はそこで考えることをストップして、今我々がいるこの世界、あるいは想像可能な範囲での行く末を考える方が、自然なことだと思うんです。
 でも、不思議なことに、考えられないといっても考えてしまうのが、人間なんですよね。 自分が死んだらどうなるんだろう、この宇宙はどうなっているんだろうと、自然と考えてしまうのが人間だと思うんです。
 それは、もしかしたら単に物を考える行為ではなく、もっと真実に近いと思われる、深い部分から湧き出てくる疑問と向かい合う行為ではないでしょうか。
森田  はい、そうですね
出口  ただ、「それは宗教ではないのか」と問われると、僕は宗教の形というのはあくまで一つのレトリックであり、物語であると考えているので、それとは違う気がしています。
 もし、神という存在があるのなら、神は宇宙とほぼ同義というか、それぐらい大きな存在ではないかと僕は思うんです。このように神を視覚で捉えることのできない、もしかするとわずかに聴覚だったら捉えることができるような大きな存在で、なおかつ宇宙万物を育てているエネルギー体のようなものではないかと考えたとすると、それはレトリックでしか語れないものですよね。
 例えば、イエスや釈迦等の特殊な人達は多分、宇宙の本質のようなものを体で感じていたのではないかと思います。そういった人が1000年に一度かどうかわからないですけど、確かにいたと思うんです。でも、その存在を他の人に伝える時には、その時代の言葉で、なおかつ、レトリックでしか語ることはできないのではないかと思います。
 聖書を例にとってみても、レトリックですよね。
語れないことをいかに語るか
森田  数学における一つの大きな役割に、「語れないことをいかに語るか」という大問題があります。どうしても語れないであろうことを、それでも語ろうとするわけです。それが、やっぱり失敗しましたっていう時に、初めてメタなメッセージとして、“語れないものがある”ということが浮かび上がり、その語れないものさえも、相手に気づかせることが可能になるということが起こるんです。
 これはもともとアメリカの文化人類学者グレゴリー・ベイトソンが使ったたとえなんですが、このことを僕はよく、動物の甘噛みの話でたとえます。動物は、噛んでいないということを伝える為にどうするかっていうと、一旦噛みついて、でも本気では噛まないということをしますよね。つまり甘噛みとは、噛むという行動をしながらその行動を完了させないということによって、噛んでいないというメッセージを相手に伝えることができるわけです。
 これを人間に置き換えると、言語の一つの使用法として、言語を使用するのだけれども完了させないことによって、もっとメタなメッセージを相手に伝えてしまうという、そういう方法があるのではないかと思います。
 そして数学もその一つの方法ではないかと、僕は思っています。つまり数学は言語と記号しか使わないのですが、それらを使って「伝えられないもの」を伝えるために、それらの使用を徹底しながら、その使用が完了しないという形で何かメタなものを伝えるっていう行為なんじゃないかなって思っているんです。だから僕は「数学は甘噛みだ」っていうたとえを時々しています。
出口  語れないことをいかに語るか……僕がなぜ宗教に入らなかったのか。語れないものを語るのが宗教なのですが、その際、やっぱりどの宗教でもレトリックを使うわけです。そして、その時代の言葉を使って表現する。
 しかし、そこには必然的に人間の解釈が入ってきてしまいます。天啓を受けた人間の解釈、あるいはそれを取り巻く制度の影響を受けてしまうんです。つまり、人が集まってくれば、そこに必ず権力や、人を引っ張っていくためのルールが作られていきますよね。その中で、かなり言葉が変換されてしまうと思うんです。その上で、「これが正しいんだ、神様はこう言ってるんだ」と言われたら、信者はそれを信じるしかないわけで、我々はそこで思考が停止されてしまうんですよね。
 別に宗教を否定するわけじゃないけど、僕は、そういう人間のフィルターを通され、変換された言葉を盲目的・一方的に受け取ることに違和感を感じていて……その先の、目に見えないもの、あるいは語れないものを誠実に語りたい、という考えが自分の中にずっとあって。
 いまお話を伺っていて、森田さんはそれに近いことを数学を使って行われていらっしゃると思うし、僕にとってそれは文学だったんですよ。
 なぜ道徳ではなかったのかというと、道徳というのは、やはり「これが正しい」と主張しますよね。しかし、文学は「これが正しい」と言わないんです。でも、まさに人間の実存を、それこそ手応えのある塊として引っ張り出そうとする試みですよね。特に夏目漱石あたりそうだと思います。
 そういった意味では、あえて一つの宗教を選ぶことなく、森田さんや僕に限らず、それぞれの人がそれぞれの手段で、手の届かない何かに少しでも触れてみたい、追求してみたいという思いがやっぱりあるんじゃないのかな。
 僕は数学は全然わかりませんけど、森田さんは数学を通して、そういう意味での哲学をやってるんじゃないかなって思いますね。
 森田さん、何で数学を選ばれたのですか。というのも、世間のイメージでは先ほどと逆に、目に見える、まさにコンピュータで計算できるようなものが数学だと思われていますよね。