HOME > 対談・真剣勝負 > 第11回 森田真生

〝身体感覚〟を数学で語りたい わかれた世界を繋ぎなおすもの

森田真生が育った環境
出口  今の日本の教育制度では、森田さんのようなアプローチで数学をやる人は生まれにくいと思うのですが、小・中・高の間、算数・数学をどのように勉強されてきたのでしょうか。
森田  アメリカにいた頃は、例えば毎月生徒が先生に代わって授業をする機会を設ける等、先生が工夫をこらした授業を行っていたので面白かったですね。僕もよく、算数の授業をして楽しかった思い出があります。
 日本で習う算数はあまり面白いとは感じなかったのですが、勉強はきちんとしていました。実は、僕にとって勉強するということは、掃除することと同じなんです。
 日本の宗教、特に神社等では、清めること、つまり掃除ってすごく大事なこととされていますよね。僕は中学生の時、「掃除が大事だ」という哲学を、“雀鬼”桜井章一さんの本で学びました。ここで言う掃除とは、自分の周りの気になるもの・負い目をできるだけ無くし、清めることを指しますが、それが勝機の流れをつかむために必要なんだと。ですから当時の僕は、成績が上がるから、好奇心が満たされるから勉強をするのではなく、自らを清め、良い流れをつかむために勉強していたんです。試験に向けて機械的にきちんと勉強し、最高得点で突破していくことが、僕にとっては、常に机の上をきれいに掃除しているのと同じような感覚だったんです。トイレ掃除をするのと同じような感覚で、機械的な計算をしていましたから、本質的な意味での勉強はあまりしていなかった気がします。
 何かの好奇心を満たすため、という本質的な意味での勉強は、むしろバスケを通して行っていたような気がしますね。バスケのプレー中、「生きること」とか「自分が存在していること」、そして「死とどう向き合うか」等についていつも考えていて、それが自分の哲学を作っていったように思います。
出口  以前、ここで対談させて頂いた宮台真司さんや和田秀樹さんも、似たような話をされていました。ものすごく頭の良い人は、つまらない受験勉強を要領よく片づけ、本質的な自分が追求したいことに、時間をあてる傾向があるようですね。
  話は少し戻るのですが、アメリカの教育と日本の教育とは、だいぶ違ったんですよね。
森田  先日、たまたま実家で荷物の整理をしていたら、小学四年生の時のディベート資料が出てきて、テーマを見ると「カオスと秩序について」だったんです。小学三、四年の段階で、そのような高度なテーマで議論をしていたんです。
 アメリカには二歳から十歳まで住んでいたのですが、向こうの小学校は生徒が授業をしたり、時間割もその日の朝に決まったりと、日本の小学校とはかなり違いましたね。
出口  初等教育はアメリカで受けたわけですね。それだけの期間をアメリカで過ごされたのなら、日本に戻って来た時、かなり違和感を覚えたでしょう。
森田  はい。帰国して日本の小学校で初めて「時間割」の存在を知りました。初めて見た時は間違って横に読んでしまって、一日のスケジュールを国語・体育・国語・体育と解釈し、「うおー、すげえ」って思わず叫びましたね(笑)。
 やはりアメリカ人は、発言や自己主張を積極的に行います。でも、日本に帰って来て、発言や自己主張を積極的にしていると、周りから白い目で見られる訳です。そのようにして、「これは許されないことらしい」と、アメリカでの常識が、日本では当たり前ではないことにだんだん気づいていきました。
 もちろんバスケのコートに立った時の振る舞いやロジックなど、変わらないこともありましたよ。だけど、表面的な価値観とか美意識については、「人間って結構いい加減なものだなあ」と実感しましたね。
 そういえば、アメリカ人はわりと子どものときから大人びているので、日本に戻って来た当初は、周りの同級生がみんな子供っぽく見えたことを覚えています。でも、半年くらい経った頃にはそれが普通になっていき、いいなと思う女の子の基準も変わりましたね(笑)。
生命の中に浮かぶ生物
出口  森田さんはそういう違いを乗り越えて日本の教育に順応し、東大に入った訳ですね。
森田  日本での教育の中で特に印象的だったのは、バスケットボール部での指導ですね。中・高時代、ずっとバスケ部に所属していたのですが、そこで受けた教育が、ものすごくスパルタだったんですよ。
 監督は実業団の選手出身で大変に意識が高く、「例えば俺が今針を落としたら、ピンと張りつめた空気の中で、その音が本当に聞こえるような――そんな場を作って練習したい」といつも言っていました。そして実際に、そういう雰囲気の中で行われた練習だったんです。
 つまり、試合の勝ち負けうんぬんよりも、そのような空気や場を作っていくことに主眼を置いた指導で、ほとんど修行みたいな感じでした。
 僕にとっては、授業で学ぶいわゆる普通の教育よりも、バスケ部の六年間の生活が自分の根底を形作っていった気がします。
 「私を超えた何かがある」という感覚も、バスケの経験を通して得られたものだと思うんです。プレー中、本当に流れに乗っている時って、自分という感覚はなくなってしまうんです。マイケル・ジョーダンなんて、「本当に調子が良い時は、自分を超えた知覚が拡張して、コートの真上から全てを見渡しているような感覚になる」ということを言っています。僕はそこまで明瞭に感じたことはないですけれど、試合に没入している時は、「私の身体の中の私」を意識しなくなるんです。そういう感覚はすべて消え、ただ大きな流れだけが存在する、のだと。
  文化人類学者の今西錦司は、生命と生物は全く違うものであると述べています。
 すべての生物は、親の親をずっとたどっていけば、原初に現れた単細胞生物にたどり着くはずですよね。つまり、「全ては同じ一つの物から分かれてきた」という意味で、生命とは大きな一つのものとも捉えられると思います。
 先ほど、「宇宙と神というのは、ほとんど区別がつかないんじゃないか」というお話がありましたが、そういう大きなもののことを“生命性”と呼ぶとすれば、その生命の大きな流れの中に、ポワッポワッと浮かぶ存在――それが“生物”なのだと。その生物にはもちろんそれぞれ命が宿っている。しかし、それらを包含するもっと大きな概念として、すべての源となる“生命性”と言えるものがあるのではないか。つまり、生命(性)と生物とは密接に関係しているんだけど、区別しなきゃいけないという話をしていました。
 そういう大きな“生命の流れ”と、それぞれの“命”があるとして、僕のこの生物としての“命”とは、「大きな流れの中のほんの一瞬、僕という小さな器に生命性がとどまってできた存在にすぎない」というような感覚は、実際、バスケをしている時によく感じましたね。
出口  昔の修行がその代表的なものですが、身体を極限まで研ぎ澄ませることにより、身体という狭い枠に閉じ込められていた魂や心がその枠を大きく超え、広がっていく感覚が得られるのかもしれませんね。
森田  仮に生物としての死が、その大きな生命に再び戻って行くことだとすると、「死に方」もきちんと考えないといけないと思うんです。長生きの方法や、死なないための手段は頻繁に研究対象とされますが、「死に方」についても、もっと研究されるべきだと思います。
 例えば、日本では火葬しますよね。僕の感覚では、燃やして肉体を消す行為は、何だか消えるのを急いでいる感じがするんです。僕らは、他の生物から命を奪い続けて生きているから、死んだ後ぐらいは、土の中で他の生物に食われ、奪われしながら消えていく方が良い気がするんですけど、それさえしないで燃やして死ぬという選択は、良いことなのかと……。
 先ほど言ったように「死」とは生物的な現象にすぎず、生命としては連続しているとすると、その連続していく方法について、もっと真剣に考えないといけないんじゃないかと思うんですよね。
出口  なるほど、昔から「自然に還る」という言い方をしますよね。
肉体を超えたもの
出口  思考や感情のすべてが「単なる脳の働きだ」と言われてしまうと、脳は肉体である以上、まさに死んだら全部が消滅する訳ですが、この点に関して、僕はずっと引っかかっていました。
 そこで、「心と魂は違う」と考えれば、割と説明がつくんじゃないかと思ったのです。心とは、「女心と秋の空」という言葉があるように非常に変わりやすいものです。では、心を脳や神経・肉体と強く結びついた存在だと仮定しましょう。すると、肉体が無くなれば心も無くなりますよね。そして、肉体と結びついているからこそ、痛いとか怖いといういろんな感情が生まれやすく、すなわち心は変わりやすいと言える。そのように、心は肉体と非常に強く結びついている存在なのではないでしょうか。
  一方、魂は肉体とは離れたところにあるのかもしれない。例えば、職人魂とか大和魂って不変のものですよね。
 つまり人間の中には、表面的な肉体とか脳に支配されている心の部分と、肉体を超えた、それに支配されない魂がある。そう考えると、すごく説明しやすくなるんじゃないかなと思うんです。
森田  ラジオを使った面白いメタファーがあります。文明とは無縁の原始的な暮らしをしている部族の前にラジオを置いてみた。すると、その部族は「お、何かこいつしゃべっているよ」と言って、さらにラジオのつまみとかを動かしてみる訳です。当然つまみによって、しゃべったりしゃべらなくなったりしますから、それを見て「すげえ、こいつ」と語り合う。そしてそのラジオに石が当たって壊れると、急に音を出さなくなることをもって、「ああ、死んじゃった」と思ってしまう訳です。
 だけど、実際の仕組としては、ラジオはラジオ波を受けて音を出しているだけですよね。つまり、ラジオは音を媒介しているだけで、考える主体ではないわけです。考えている主体はラジオの外にあって、ラジオは肉体にすぎない。
出口  そうですね。それは肉体だね。
森田  ラジオを壊したら音がしなくなる、という現象を通して、「考えているのはこいつ(そのラジオ)だ」と、部族の人は発想するのですが、実は考えている主体は全然違う所にいますから、たとえこのラジオが無くなったとしても、違うラジオで受信できたりする訳です。
 僕らは普通、脳が停止したら心も消えるから、脳に心があるという風に考えるわけですけど、ひょっとすると、このラジオの場合のように、心の本体は脳を超えたどこかにあって、それがたまたま脳に現れているだけという可能性もある。少なくとも、脳が停止したら心が消える、というのは、脳に心があるということの証明にはならないわけです。
出口  その通りだと思います。さて、ラジオ波と言えば、科学の進歩の結果、それこそ電波といった目に見えない物でさえも我々は信じられるようになってきたわけですが。
森田  面白いことに、何かを「わかろう」として科学がどんどん進歩していくのに、科学のおかげで僕らの「わからないことに対する想像力」もどんどん膨らんでいますよね。普通の生物は目の前の世界が全てで、自分の知らないことがあるかもしれないなんて思ったりしない訳じゃないですか。
 昔の人間の「自分の知らないことがあるかもしれない」ことに対する想像力って、おそらく今よりもずっと小さかったと思うんです。科学のかつてない進歩とともに、「わかっていないこと」に対するリアルな広がりについても、今の僕たちは人類史上最も感じていると言えるのではないのでしょうか。つまり、「自分たちを超えた何か」に対する想像力が、科学という行為のおかげで獲得されているとも言えると思うのです。
人間に託された使命
出口  寺田寅彦が同じようなことを書いていました。科学が進歩して人間がいろんなことがわかってくると、未知の領域はさらに大きくなるものだ。そうやって永遠に広がっていくのだ、と。
 そういう意味で科学の進歩というのは、決して宗教と矛盾するものじゃないと僕は思っています。森田さんのお話風に言うと、アリは人間の姿の全体を見ることができないけど、人間はアリの全体像が見える訳です。だから人間よりもっと大きな存在からすると、人間のことは非常に良くわかるだろうし、逆に自分よりもはるかに大きな存在に対しては、人間でも即座にわからない訳です。
森田  そうですね。人間の皮膚細胞のすごく細かいことについて、人間にはわからないが、蚊なら知っている何かがあるかもしれないですね。このように、小さいものにしかわからないこともあると思うのです。
 つまり、それぞれの存在が、それぞれの視点で理解できるものしか見えていない訳ですが、それが多分、生物という存在形態の重要なポイントだと思うんです。
 先ほどの“生命”の大きな流れの中で生物が発生する、という考え方に立ってみましょう。生命というものはあまねく存在していて、生物とは局所的存在です。だからこそ生物は、自分の周りのことしか知らないわけです。
 例えば単細胞生物は自分の周囲の水の流れしか知らない。だけどそのことについてはすごく知っているわけです。海の中に生物が発生することで初めて、局所的な水の流れ等について知る存在が生まれると思うのです。人間も、自分の周りのスケールのことについてはよく知っているけど、それ以外のスケールのことはあまり知りませんよね。
 いろんなスケールの生物が誕生することによって、大きな生命の全体が「俺、これについてわかっているよ」「俺は、あれについてわかっているよ」という風に自覚しはじめるのではないでしょうか。
出口  ではその生物の中で、人間とはどういう存在なのでしょう。いろいろな生物の中の一つにすぎないのか、それとも人間だけは他の生物とは全く別の存在なのか。
森田  例えば、単細胞生物は水中で、まわりの環境とつじつまが合うように体内の化学的なバランスを調整し続けています。結果として、周囲の環境に「似て」くる。環境の構造とまったくつじつまの合わない内部を持っていたら生き残れないわけですからね。生物はまるで周囲の環境情報を、自分の体内に「記述」するようにして、周囲の情報を体内に蓄積していきます。

 このようにして、周囲の情報を体内に蓄積していくプロセスを広い意味での「記憶」と呼ぶことにすれば、周囲にはない情報をみずから生み出すのが、人間の持つ「想像力」ということができるのではないでしょうか。ただ問題は、この想像力をどこに向けるかということです。想像力を駆使して、他の生物を支配し、制圧していくのではいかにも淋しい。あらゆる「生物」が、一体不可分の「生命」のあらわれだとしたら、局所的な存在として世界中に散らばっている生物と生物のあいだに、新たなコミュニケーションの契機を立ち上げていくことができるのではないか。僕は時折、そんな「想像」をします。

 そういう意味で、人間は自然を支配するものでも制御するものでもなくて、自然を「媒介」するもの、わかれた世界を繋ぎなおすものなんじゃないか。それこそが人間の役割なんじゃないか、って僕は思っているのです。
  (次回へ続く)