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国語はセンス? 「話せばわかる」ためのルール 論理と数学、そしてメディアリテラシー
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テレビは“振り込め詐欺”?!
和田  国語の先生が一番勘違いしているのは、「日本人は日本語が読めるのが当たり前だ」と思っていることにあるのではないでしょうか。日本語は、漢字を除けば、話し言葉と書き言葉がとても似ているので、割とそこが盲点となってしまうので……。
 外国の場合、しゃべれるけれど、読み書きができない人が、例えばアメリカみたいな国でさえ10%か15%いますから、読み書きに関して、極めて教育の中で重視されてきていますよね。
 だから、アメリカ人が言うEnglishというのは、ほぼグラマーであったり、あるいは要約ができるようになるとか、普通の文章を普通に読めるようになるところまで持っていくことを目指した指導であって、シェークスピアの講義を高校までの授業でやることはないわけですよ。
 一方、日本の場合は「読めて当たり前」だから、いきなり国文学から入ることをずっとやっています。
 しかし、いまは本当に小学生レベルぐらいまで戻って、「ここの部分の主語は何か」とか、「この『これ』という指示語は何を指すのか」ということまで含めて、きちんと教えていかなければいけないぐらい、国語力が低下している。
 英語だと、「いや、僕はすごく英語読むの、遅いんですよ」「速いんですよ」という差は割と素直に認めるのに、日本語はみんな当たり前に読めるみたいに思っている。しかし、本当は全然違うし、速読みが得意と言う人の中でも、内容が全く頭に入っていない人も沢山いると思うんです。
見過ごされてきた学問の本質
和田  論理的思考力は、ある一定の年齢を過ぎると誰でもマスターできますよね。そこでお伺いしたいのですが、出口先生は、論理的思考力を身につけるのは高学年になってからでも良いとお考えなのか、それとも「早ければ早いほど良い」という種類のものだとお考えなのか、お聞かせ願えないでしょうか。
出口  一概に言えないと考えています。つまり、「小学校○年生の時にこれを学ぶ」という考え方そのものに無理があると思うのです。なぜなら、小学校4、5年生くらいまでは、言語の習得の個人差がすごく大きいですから。
 小学5年生であっても、物を考えるための言語を習得できていない子どもであれば、論理を教えても理解できないんですよ。
和田  なるほど。
出口  一方、小学校3年であっても、もう言葉で物を考えることができる早熟な子供も、結構いるんですね。
和田  おっしゃるとおりですね。
出口  そういう子には、どんどん論理的思考力に関する教材を与えてあげる方が、グッと伸びます。ところが、そういう早熟な子ほど、塾に行って逆に詰め込み教育をやらされてしまう。彼らは当然頭が良くて、人の話が理解できるから、憶えて成績が上がります。そこに落とし穴があるのです。
 彼らは、本来物を考える力を持っていたのに、幼少時の成功体験のおかげで、逆に何でも詰め込み型の知識で処理していくような人間になりがちなんですよ。
 すると大抵、大学受験のときに大きな壁が立ちはだかるようになりますね。
見過ごされてきた学問の本質
出口  それともう一つ。先ほど心情問題のお話がありましたけれども、実は先生のような頭の良い人ほど、自分の感覚で考えますよね。それで答えたら、大抵ペケになるんです。つまり、本当にできる子ほど、心情問題では点数が取れないという事態が現実に起こりやすいのです。
 その理由は、やはり僕らの時代の国語教育が、正しい考え方を情報として与えてこなかったことにあります。つまり、日本語で書かれた小説である以上、読めばわかるだろうという教え方がなされてきた。しかし、入試の小説問題とは、断言しますが読んでもわからない問題なのです。
 なぜなら、我々は小説を読むときに、1ページ目から読みますよね。
和田  はい。
出口  途中から読む人はいませんよね。小説とは、1ページ目から読んではじめて、段階を踏んでいろいろな情報を得ていくものです。徐々にその小説の舞台となっている時代や状況、あるいは、その主人公の性格や人間関係などが、だんだん頭の中に入ってくる。
 だから小説は、最初の30ページを読みこなすのが退屈なんですよ。また、だからこそ、次の場面が正確に理解できるのです。
 ところが、入試問題は、長い小説の一場面だけを切り取っているわけです。そして、その場面とは、受験生にとっては、時代も状況も価値観も感受性も違う世界です。さらに、主人公がどんな人物かさえわからない。
 そこで自己流に読もうとすれば、当然自分の感受性が反映された読み方になってしまってペケをもらってしまう。
 実は心情問題とは、その人の心情読解力を試しているのではありません。この切り取られた部分的文章をいかに客観的に正確に分析できるかという、情報処理能力、つまり論理力が問われているのです。
和田  なるほど、そうなのでしょうね。
出口  それなのに心情問題を論理と切り離して、正反対のものとほとんどの方は思われている。だから解けないのです。
 実際は、心情問題は、誰が見ても文中に答えの根拠がはっきりわかるような作りになっています。ですから、ルールをきちんと理解さえすれば、頭の良い方は確実に満点が取れるのです。ルールを知らずに解いているから、どれだけ勉強しても点が取れないというだけの話です。
 よく論理力、または記憶や知識、あるいは情緒や想像力、いずれが大切かという議論がありますが、その議論そのものが僕にはナンセンスに思えます。
見過ごされてきた学問の本質
和田  そのルールに従わないで書かれている文章が、最近出てきてしまっているということも問題ですよね。例えば私は、自分が考えていることを、根拠となる情報とセットにして相手に伝えるのが、論説文であると考えています。
 私が『産経新聞』の「正論」を書くときも、その点を重要視しているわけですが、今の時代は、相手の感情に火をつけて、ある種、アジっているような文章ほど喜ばれるようになっている。
 でも、それは、お互いが共通の言語を持っているのに、自ら放棄しているようなものじゃないですか。
 養老先生がいみじくも言っていますね、「話せばわかるはウソ、みんな違うって」。
 確かに、各個人がおのおのの考え方で、それぞれの前提で話してる限りにおいては、話してわかることはあり得ない。しかし、話のやり取りと違って、文章の便利なところは、ある種のルールに従って話を伝えれば、それがある程度「話せばわかる」に近い状況を生み出せる、ということだと思うんですよ。
出口  おっしゃるとおりですね。そのルールこそ「論理」だと思うんです。論理とは、「言葉の一定の規則に従った使い方」であると僕は定義しています。 例えば、先ほどおっしゃった論説文や評論文等において、筆者が自分の考えを述べるときは、必ずルールにのっとっています。それが「筋道」です。筆者が他者に向かって文章を書くときは、必ず「筋道」を立てる以上、それを読む際も、筆者の立てた「筋道」を追ってくしかないのです。
 つまり、筆者の言う「筋道」を正確につかまえていくこと、それこそが「論理」であり、読解そのものであるはずなのに、国語はまるで「センス・感覚」みたいな捉えられ方をしてきたのです。
 そのようにきちんと「論理」を意識して文章を読み、それを論理的にまとめ、そして考え、さらに自分の考えを論理的に説明するようになると、世界中の人誰もが共通のルールのもとに話ができるようになる。すると、コミュニケーションもできるし、感情的な議論にもならないと思うのです。そういう訓練が、国語の中で全く今までなされてこなかったのではないかと思っています。
和田  そうですね。例えば藤原和博先生は「絶対量の差だ」みたいなことをよくおっしゃっていて、中学2年生の国語の時間が105時間しかないのに、テレビを見ている時間が1,400時間もあったら、「日本語がおかしくなるのは当たり前だ」みたいにおっしゃっています。
 であれば逆に、その105時間の中で、いかにまともな「論理」を身につけさせるか、といいう教育をやるしかないのでしょうね。実際、「論理」を身につけていくと、テレビに出て偉そうにしている人たちが、感情論しか振り回していないことがわかるようになると思います。
 例えば、原発事故のニュース解説にタレントが出てきて「怖い、もうちょっと情報を伝えてほしいですよ」って言ったりしますが、本当は伝わっている情報を自分が読んでないだけだったりするわけです。そういうおかしな状況は脱却できると思うんですよ。