HOME > 対談・真剣勝負 > 第8回 宮台 真司

アドレッセンス回顧 コミュニケーションと宗教性 3.11で露呈した世界
 
引き受けて考える作法 宮台的革命論 ― 心の習慣を変えるために    

宮台流受験術
宮台  出口さんと僕はほぼ同世代ですが、昭和30年代から40年代初め頃までは、理系志望が当たり前でしたよね。文系に行くって言うと、「そんな非生産的なところへ行ってどうするんだ」「社会のために貢献しようと思わないのか」なんて言われるのが一般的でした。
出口  たしかに、勉強ができる子は理系に行くイメージがありましたね。
宮台  祖父が昭和天皇に生物学を御進講申し上げる立場だったりして、理系で成功してきた家系でしたから、うちは尚更その傾向が強かったのです。僕が理系から文転したとき、父親に「じゃあ、法律家になるのか」と聞かれて「映画監督になる」と言ったら、頭を叩かれました。「じゃあもういいや」と思って、高3で学業を放棄したんです。
 それで浪人することになって駿台高等予備校に入ったのですが、高3最後の1月模試で38だった世界史の偏差値を、3ヶ月後の4月模試では72まで上げました。以降、そのノウハウを使ったところ、駿台の全国模試の全てで成績優秀者ランキング入りしました。全国模試総合1位を取ったこともあります。
出口  すごい。どんなノウハウですか。この対談を読んでいる受験生はかなり気になると思いますよ。
宮台  僕は飽きっぽくて集中力が続かなくなる性質なので、1科目10分間で区切ることにしたんです。東大は5教科7科目だから、デスクに7冊の問題集を置き、タイマーをセットして、最初の科目は10分経ったら必ずやめて、次も10分、次も10分……と、短冊式に何度もぐるぐる回る。同じ科目を約1時間に1度必ずやるわけです。
出口  なるほど、僕も「飽きっぽい」のには身に覚えがあります(笑)。逆に宮台さんは、すごい集中力の持ち主だと思いますよ。10分間集中して、区切りを付けて、また集中して一通り勉強して、1周して……。瞬発力のような集中力があるからできることですよね。
宮台  中学で出会った幾何学の先生がこう言いました。「君たちは、数学は思考力だと思っていよう。それは勘違いだ。受験数学は数学全体の0.1%にすぎない。問題を解くだけなら暗記で十分。中学生ごときが考えるなど百年早い。問題集を使え。問題を見て10秒考えて分からなかったらすぐ答案を見て問題と解答の結びつきのパターンを暗記せよ」と。
出口  面白いですね。というのも、いま水王舎で出している石井貴士さんの『1分間数学Ⅰ・A180』が、まさに同じ方法論なんですよ。宮台さんの恩師がおっしゃった通り、思考するのではなく、180問の必須問題を合理的にパターン暗記することにより、問題を見た瞬間に解法イメージが思い浮かぶようにする参考書なんです。これこそ、最も効率のよい受験数学の勉強法だと考えて作られたんですね。著者の石井さんもこの方法で、数学の偏差値を3ヶ月で30から70に上げたそうです。実際、読者からの反響も大きいですよ。
 僕は、受験において記憶が大切なのは数学であって、現代文こそ自分の頭で考えなければならない科目のような気がしますね。
宮台  そう。僕は駿台では国語の成績が良く、何度か全国一番を取りました。でも、Z会の受験科クラスは難しく感じました。添削で「駿台で1番でもZ会ではダメ」って書かれたことがあります。君はパターン認識で解こうとしているが、Z会はそういう問題じゃない。東大程度はパターン認識で行けるが、Z会は東大よりも上を目指す、と。
 出口さんのおっしゃる「現代文はパターンプラクティスの向こう側にある」というのは、Z会の添削者が残したメッセージと同じです。パターンで解ける部分は、数学でも国語でも入口。でも、大学受験レベルだとそれで解けることが多いのは事実です。最終的にはZ会受験科の国語でも十位以内に入れるようになりましたが。
出口  僕から見たら東大の現代文の入試問題はすごく簡単です。与えられた文章を理解したかどうかを書かされるだけですから。しかし、実際に東大に合格する生徒の答案を見ると、まともな日本語が全然書けていません。小論文はもっとひどい。
宮台  日本の教育には、教えられる内容から教え方に至るまで、日本社会のあり方と結びつく形で典型的な欠点があるのです。例えば「国語」は、1952年の文部省仮検定教科書終了までは「言語」と「文学」に分かれていました。「文学」が現在の「国語」。「言語」が今で言うメディア・リテラシーの訓練です。
 具体的には、(理解を超えて)表現の手法を教えるのはもちろん、理解についても、たとえば相手がどんな利害相反問題を抱えるのかを相手の属性から想像させた上で、どのように割り引いて聞かなければいけないかを議論する、といった実践を推奨していたんです。
 ところが、冷戦体制の深刻化を背景としたGHQの方針変更により、「言語」が廃止されて、サンフランシスコ講和条約発効以降の本検定教科書は「文学」アラタメ「国語」だけになりました。「社会的文脈を読み解く力」と「それを踏まえて説得する力」の訓練をやめて、国語を古典的文学の鑑賞科目にしたわけです。
 そこには「正しい読み方」があるという話になって、単なるパターン認識の暗記科目になりました。これならば、ヘタに考えずにパターン認識を鍛えることで、簡単に総合模試で一番がとれます。お分かりのように、オカミにとって統治しやすい人材を養成する方向に、政治的に誘導されたのです。
 むろん暗記は極めて大切です。でもそれは、幾何学の先生が言ったように、余計なことに思考の時間を取られないようにするためです。つまり、暗記でカバーできるところは出来るだけ短時間で暗記して、その先にある本当に重要な思考に時間を使いたいからです。
 僕は、予備校時代も自宅では1日4時間以上は勉強しないと決めて、1か月に30本以上の映画を見ていました。それでも偏差値70台を問題なくキープできました。10分単位のローテーションで集中力を持続すれば、受験程度のことは暗記だけでクリアできるからです。
 パターンを暗記すれば済むことをいちいち考えるように誘導されるということは、別の大切なことを考えることを妨げられていることと同じです。僕は中1の頃から革命家になることが目的だったから、そのために必要な思考にどれだけ時間を使うかが「社会との勝負」だと思っていて、映画もそのつもりで見ていました。
 そんな僕にとって、「他の受験生との勝負」などは「社会との勝負」から注意をそらすための目くらましにすぎないと感じられました。だから予備校時代でも、月に映画を30本は見ていました。池袋にあった文芸座と文芸地下劇場で、毎週土曜にオールナイトを見ると、そのぐらいのペースになるんです。
出口  日本の教育では、教える側にも、教えられる側にも「言語とは何か」という問題意識すらほとんど無いでしょう。先ほど数学は記憶で解くという話がありましたが、つまり受験数学というのは、数学の最も基本的な言語を暗記した上でそれを扱えるかどうか、習得したかどうかをみるレベルです。その次に何かを考えていこう、何かをやろうというのが学問なので、受験勉強は本当に入口の扉の前に立つまでの内容にすぎないということになりますね。
祭としてのアングラ
出口  ところでかく言う僕たちは京都出身で、子どもの頃は受験がありませんでしたね。さきほど「革命家になりたかった」というお話が出ましたが、それはいつ頃からですか。
宮台 中学に入った頃からですね。僕は嵐山と山科で育ったのですが、小学校6年生の9月に東京の三鷹に引っ越しました。東京に来たら突然「成績が良いから受験しろ」って言われて、訳もわからず日曜日に四谷大塚と日本進学教室に行かされました。それで何もわからないうちに、気がつくと麻布に入ったわけです。
 僕は京都で育ったせいか、お祭りが大好きでした。東京に引っ越して困ったのは、大きなお祭りが無いこと。それだけじゃない。京都にいた頃は、東西南北という方角に「色」が付いていました。北の安祥寺池は自殺の名所、東の白岩は子供が殺される場所、といった具合に。むろん本当かどうかはわかりません。
 それが東京に来たら方角に全然色が無くて、なんだかすごく混乱しました。こんなつまらない平坦なところに長く住んだらどうなるのだろうと思いました。
 ところが麻布中学に入ったら、中学・高校紛争の真っ只中。機動隊の装甲車が校門をロックアウトしていて中に入れず、公園で野球しているだけで英語の成績がついたり。――まさに「祭り」なんですよね。しかもアングラ劇団、アングラ映画、フリー・ジャズなどについて教えてくれる先輩たちがいっぱいいて、芝居や映画に連れて行ってもらったり、ジャズ喫茶に行ったりしていました。今から振り返ると、夢のような「祭りの毎日」でした。
出口  なるほど。京都の祭りじゃないけど、ある意味で凝り固まった秩序に対する混沌というか、非日常世界に漂う独特の熱気に身を晒すような感覚でしょう。
宮台  ええ。まさに僕にとっては、中学で接した紛争時代のアンダーグラウンドカルチャーが、京都で経験した祭りの代替物だったんです。だからどっぷりはまってしまった。
 アングラには柱が2つあって、1つは、マルクス主義革命、つまり反資本ですが、もう1つは反近代のモチーフでした。こちらが祭り的な要素なんです。
 寺山修司や唐十郎の芝居に見られるように、近代化以前に持っていた感受性を取り戻そうみたいなメッセージですね。我々はこうした感受性を喪失した結果、〈世界〉の豊かさに接触できない貧しき存在になったという。だから僕は、反資本の「世直し」と、反近代の「感受性回復」が、両方大事だと思うようになりました。
 中2ぐらいから、当時赤軍派のシンパだった若松孝二と足立正生のピンク映画にはまるようになって、尚更そういう方向性が強くなりました。〈ここではないどこか〉を希求する主人公が〈どこかに行けそうで、どこにも行けない〉という話です。その上で〈ここではないどこか〉を希求する営みを、肯定的に抱擁するわけです。
 また、当時は、全学集会や学年集会で演説をする機会がありました。集会は祭りそのものです。演説では、現代国語とはまた違ったパターンプラクティスの成果が利用できることがわかりました。かくして、価値を訴えて人を動員する快感を、中2ぐらいで知っちゃったんですね。
出口  宮台さんが中学生の頃と言うと、全共闘の学生運動がほとんど終わりかけている時代ですよね。そこから若者たちは押さえ込まれてしまい、ますます感受性の喪失云々と指摘される世代へと移っていきますが、ちょうど僕らはその狭間の世代。だからどちらの世代にも通じるものがあるけれど、それらを客観的に批判する眼も持ち合わせているような気がしますね。
宮台  確かに距離をとりながらモノを見ます。僕は78年に大学に入ってすぐに映画を撮り始めました。主に新宿を舞台にしてアバンギャルド的な色合いの強い映画を撮っていたんです。でも79年には周囲にアングラ廃業宣言をして辞めたんですよ。
 というのも、77、8年辺りから時代の空気が変わって、アバンギャルド・ロックやプログレ・ロックやアングラ劇の時代が終わり、代わってテニスブームやディスコブームやサーファーブームやナンパ・コンパ・紹介といった時代が始まったんです。
 僕は、土曜はディスコで踊りながら、アングラ映画も撮るという分裂した毎日を生きていました。おかげで人よりも時代の変化に敏感になれました。そして、大学でいまだに学生運動をやっている連中のことを、モテないからじゃないかと思うようになりました。
 それで「俺がアングラやってるのも、あいつらと同じ理由だと思われるかもしれない」と思うようになって、急いでやめ、うってかわって84年に友達と学生企業を作りました。こうした変転・めまぐるしさは、距離をとる習慣に関係しているのかもしれない。
 最初はテレビドキュメンタリーの構成台本書きや企画出しをしていたんですが、84年ぐらいからはマーケットリサーチの会社に変わりました。事務所が赤坂にあって、六本木のデータ処理会社とジョイントして仕事をしていました。その会社が僕らを接待旅行に連れていって、会社の一番きれいな女子社員を付けてくれたりして。本当にバブリーでした。84年からの4、5年は一瞬だったけれども、今の若い人たちには考えられない時代でしたね。かくしてアングラは封印されました。
 ところが、91年にバブルが崩壊する。同じ頃に寺山修司が亡くなる。寺山の追悼特集号がいろんな媒体で組まれて、若い人たちが突然アングラ芝居を見始めるようになり、引きずられるようにアングラの映画や音楽にも関心を持ち始めたんですよね。
 僕はそのとき東京外国語大学で教えていましたが、僕が昔ハマって封印していた知識を出してみたら、学生が、「イタイ」どころか、「カッコイイ!」と食いついてきて、びっくり。それからはアングラにハマっていたことを隠さなくなりました。