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寺脇研「ゆとり教育の真実」

はじめに

出口汪と著名人の対談・真剣勝負、第三弾は元文部科学省審議官の寺脇研氏との対話です。
ゆとり教育の真実を紐解く対話を三部構成で公開していきます。

この対談は2010年10月14日に行われたものです。

第一部 時代が変わる。だから教育も変わらねばならない。

”脱近代”を見越した「ゆとり教育」

出口

出口

最初からいきなり本題に入ってしまいますが、基本的に僕は「ゆとり教育」には大賛成だったし、今でもその考えは変わっていません。ただ、現状としては、ゆとり教育とはだいぶ違う方向に、国全体が動いていっているように思います。

寺脇さんは文部科学省にあって、ゆとり教育の中心的な推進役というイメージが強いのですが、当時、ゆとり教育についてどのような考えをお持ちだったのでしょうか。

images今は、「ゆとり教育」と呼ばれていますけれども、文科省としては、ゆとり教育と呼んでいたわけではないのです。ゆとり教育というのは、いい意味でも悪い意味でもマスコミが貼り付けたレッテルですね。

ゆとり教育は、長い時間と多くの方々の知恵と経験を結集して検討した結果、導き出された教育政策でした。すなわち、生涯にわたって学習する、その一環が学校教育である、という考え方に立った教育改革が必要であること、そのために知識重視型ではなくて経験重視型の教育方針のもとで生きる力をはぐくみ、ゆとりある学校づくりを目指すこととしたのです。あとでお話しますが、「時代が変わる」ことが、その根底にあります。

images経過を簡単に説明すると、ずいぶん前になりますが、中曽根内閣の時代、1984年に、臨時教育審議会(臨教審)という総理大臣の私的諮問機関が設置されました。当時、京大の学長をされていた岡本道雄先生を会長に、加藤寛先生とか、石井威望先生とか、当時のそうそうたる知識人をお迎えし、塾や予備校の先生から、PTAの代表から、いろいろな人からお話をうかがって、3年間議論しました。その結論がこうだったわけです。

寺脇

寺脇

出口

出口

なるほど。

だから、いわゆるゆとり教育で、教科書がどうなるとか、土曜日を休みにするかとか、あるいは「総合的な学習の時間」をやるのか、というようなことは、いわば教育改革における「下部構造」なんですね。

大切なのは、ゆとり教育の最大の背景、「時代が変わる」ということなのです。

寺脇

寺脇

出口

出口

「時代が変わる」ですね。

20世紀まで世界を支配してきた近代というものが、終わりを迎えつつある。今では「脱近代」の時代になったというのは当たり前の話になってきていますけれどもね。少なくとも、中曽根総理までの時代は20年先を見越した議論をしていたわけです。すなわち、世界は近代においてずっと続いてきた成長の限界を迎える。だから、このことを見据えた未来計画が必要だということです。

すでに、ヨーロッパでは1972年に、イタリアのシンクタンクのローマクラブが、「成長の限界」というレポートを発表しています。成長には限界があるということは、当時から鋭い人たちは見越していた。で、日本でも、当然日本もそうなるだろうという認識の中で「絵」を描いたわけです。近代が脱近代していく、という壮大なストーリーの中での教育改革の検討だったのです。ゆとり教育はこの検討の中から生まれたのです。

寺脇

寺脇

出口

出口

実に興味深いですね。

臨教審で検討した内容を、そのあとさらに、中央教育審議会でかみ砕いて議論していったわけです。このへんが、いわゆる「上部構造」ですね。私が文科省の役人として担当していたのは、この「上部構造」とさっきの「下部構造」の中間くらい、言葉で言えば「中間構造」ですね。たとえば、現場で教育していくときに、何故こんな教育をするのか、という誰もが疑問を持つ部分があります。それは時代が変わるから、という答えの部分。このへんをわかりやすくまとめて社会に送り出すというようなことです。

2002年くらいから本格的にゆとり教育が進められたときに、上部構造と中間構造で積み上げてきた議論が、全部すっ飛んでしまって、下部構造の議論ばかりに注目が集まるようになりました。台形の面積の公式がなくなったとかなんとか、そんな下部構造の議論ばかりになって。本来だったら、文部省がリードしなければならない上部構造や中間構造の部分について、もっともっと議論が必要だった。もっとも、上部構造については政治家がやらなきゃいけなかったのですが。しかし、小泉内閣がやめてしまったわけです、上部構造の議論を

だから、小渕内閣までは、「成長は限界に達する」ということを前提において教育政策も考えていたのだけれど、小泉さんは、「竹中理論」で、リーマンショックまで成長への夢を追いかけていました。だから、上部構造のそれまでの議論の方向が変わってしまったわけです。そうすると、文科省っていう中間構造が揺らいでしまって、下部構造が批判にさらされると、もう、立ちすくんでしまい、きちんとした中間構造の機能を果たせなくなってしまいました。そのために、最初に目指したことがうまく運ばなかったというのが「図式」だと思います。

寺脇

寺脇

出口

出口

images今、お話をお聞きしていて、なるほどなって思う点がいくつかあります。僕は当時予備校で講師をしていたのですが、「ゆとり教育大賛成」を公言していました。で、今の上部構造の問題ですけれども、僕にもそれがずっと頭にありました。

これはよく言われることですけれども、日本の今の教育のもともとの原点というのは蘭学にあるのです。かつて日本は鎖国していて、かろうじて日本に入ってくる西洋の学問というのは、すべてオランダ語で書かれていました。だから、オランダ語を翻訳し、その内容を吸収することが学問であるという流れがずっと続いていて、それが結局は、近代においても、あらゆる西洋のものを結果だけをとりあえずは吸収していこうという土壌を作ることになったのです。

そこで、小・中学校においては、その結果を吸収するための訓練として、計算とか、暗記、模写っていうようなことをやってきた。そういった流れが底辺にあって、第二次世界大戦で日本が負けた後に、アメリカに追いつけ追い越せで、同じことをより過度にやったのだと思います。

imagesその結果、団塊の世代あたりで、すさまじい競争の中で、勉強をすることが人間性をおかしくするというような、普通ではあり得ない状況になりました。本来勉強というのは、人間性を豊かにするものであって、子どもたちに生きる力をつけるためのものというか、よりよく生きるための武器を与えることが教育だと思います。それなのに、何か勉強することが、人間性を阻害するというような、まったく本来とは異なった状況になってしまったと思うのです。

それで、教育に対する考え方や施策を切り替えるタイミングが、いくつかあったはずなのに、たとえば、日露戦争が終わった後とか、第二次世界大戦の後とか。しかし、ことごとくそのタイミングを見失っていって、もうどうしようもない状況に放置されることになってしまった。おそらくあの時にゆとり教育、まあ言葉は違うかもしれないけれども、そうしたものに切り替えないと、日本の教育というのはどうにもならないような状況にあったと思います。

「次の時代のための教育」という視点が重要

images鋭いご指摘ですね。第二次世界大戦のことはおいておくとして、今、「日露戦争の後」とおっしゃった。その時に実はやろうとしたのですよ。ええ、切り替えようとしたのです。私たちの大先輩というか、明治時代後期の文部省の役人で、さまざまな教育改革に立ち合った澤柳政太郎さん。私もあまり詳しく知らなかったのです。私がゆとり教育で批判の嵐にさらされるようになってから、「どうもあなたは澤柳さんと同じことをやっている」という人がいるので、その澤柳さんのことを調べてみると、まったく同じなのです。

幕末から明治の文明開化の時代には、そのときの教育が一番時代に合っていてよかった。だから以来、それでやってきました。しかし、日本が一応近代化を達成して、日露戦争に勝利した時点で、新たな時代のための教育に切り替えていくべきではないかという議論が出たのです。当時の文部官僚で、局長だったようですが、それが澤柳清太郎さんです。

澤柳さんが中心になって走り回って議論をまとめていこうとするのだけれど、結局、それじゃだめだと、今のゆとり教育批判のような状態になって、澤柳さんもやっぱり文部省を追われて去って行きました。その先が違うのですけれどね。私は追われた後は、ただの浪人ですが、澤柳さんはその後、国立大学の学長を経て、成城学園を作るのです。文部省が教育政策を変えないのだったら、自分の考えている教育をここでやろうということで作ったのが、成城学園なのです。

寺脇

寺脇

出口

出口

images歴史の専門家ではないので、わからないことはたくさんありますが、僕のイメージとしては、結局あの時も、そうした動きをつぶしたのはやっぱり政治だったと思います。要は日露戦争が、大勝利ということで思想的な大宣伝をしてしまっている。引っ込みがつかなくなった中で、本当に国威高揚してしまって、軍国主義へと流れていく。ちょうど曲がり角だったのではないかなと思います。

そういった流れの中で、ゆとりよりも優秀な軍人を養成するというような知識重視型の教育が、ますます強力に進められていってしまったのではないかというイメージを持っています。

おっしゃるとおりですね。日露戦争から第一次世界大戦あたりの時代に、本来ならひとつ、近代化に区切りがつくところだったのです。帝国主義でやっていくと、こんな戦争ばっかりしてしまう。そして近代の科学力で戦争をやっていったら大変なことになってしまうということに、みんなが気づいたのです。

だから、もうこんなことはやめて、平和共存しようじゃないかと考えたのですが、最近のゆとり教育批判が、高度経済成長からバブルの夢が忘れられないように、日露戦争大勝利の夢が忘れられなくて、腰が重くなった。ところが、日露戦争大勝利と言っても、もう、本当にぎりぎりのところで、もうちょっと続けていたら負けるぐらいの、ほとんど国力の限界まで行っている中でやっていたわけです。

寺脇

寺脇

出口

出口

あれは、実際は停戦に近い、お互いに戦争を継続するだけの体力がなかったということだと思いますね。

だから、そういうことの中で、いわゆる日本の帝国主義的膨張っていうのはこれぐらいにしておいて、考え方を切り換えましょう、ということだったわけでしょう。ところが、やっぱりそこが、政治あるいはメディア、まあ上部構造を動かすのは政治ですし、下部構造を動かすのはメディア、世論になりますからね、そこに押し切られたっていう感じでしょうか。

寺脇

寺脇

出口

出口

そういう話をお聞きしたら、本当に似ていますね。その時代と今、教育もありとあらゆることも。興味深いですね。

images確かに近代というのは、まだあの時代では資源もたくさんあったし、世界もまだまだ発展途上というか、発展の余地がおおいにあったから、それは、ある程度は仕方がなかったと思います。で、勝手に発展を目指した結果、人類は、第二次世界大戦という大変な惨禍を招き、4000万人くらいの人びとを死なせてしまった。そんなことをやったしまったわけです。大変な数ではありますが、でも考えようによっては4000万人で済んでいるわけです。

だけど、今度は、成長の限界があるにもかかわらず、新自由主義経済とかあるいは従来の高度成長経済、すべての国が成長することを目指して突進していけば、もう今度は、4000万人どころの話じゃない。下手すれば地球が滅亡するくらいの災いを招くことになるかもしれない、その瀬戸際なのだ、そういう不安がでているのです。

寺脇

寺脇

「大きな教育」には新しい「大きな政府」が必要

出口

出口

images教育の話からちょっとそれてしまうかもしれませんが、今の政治状況の中で、たとえば「大きな政府」「小さな政府」って言われることがありますね。小泉内閣では小さな政府を目指しました。僕は小さな政府というのは、この時代を考えた時にあり得ないことだと思います。

なぜかといいますと、ひとつは環境問題というものがものすごく大きな問題になってしまっているということです。環境問題は小さな政府では解決できません。これはもう企業論理でも駄目であって、大きなもので統制していかないと、地球を守ることはできないのです。

もうひとつが高齢社会です。高齢化がどんどん進むとなると、労働人口は減って行き、医療や福祉、年金などいろいろな問題がもっと深刻化します。ですから、これも小さな政府じゃどうしようもない。無駄なものは当然削減しなければなりませんが、教育も含めて、ある程度大きな政府を作っていかないと、これから先の時代には対応できないと思います。

そのとおりですね。

寺脇

寺脇

出口

出口

なのに小さな政府構想に行ってしまった。

imagesそれは、小泉政権の間違いですね。で、ややこしいのは、いまだに「小さな政府」と言うほうがかっこいいと思っている人が多いこと。この前も、「みんなの党」が言っていました。しかし、民主党政権は単なる小さな政府ではだめで、もっと合理的な考え方が必要だということがよくわかっていました。それが、鳩山前総理が言った「新しい公共」という考え方です。

小泉内閣は、大きな福祉をやるためには、大きな政府が必要だから、これからは小さな政府で福祉も小さくしようと考えたのです。祉はどんどん削減されていった。福祉の縮小はしようがない、自己責任でおやりなさいみたいな話になってしまった。これでは、出口さんがおっしゃるとおり、日本の社会はもたないです。

寺脇

寺脇

出口

出口

そうです。無理ですね。

imagesそれで、鳩山さんが言った「新しい公共」です。これは「大きな政府で大きな福祉」なんだけれども、この大きな政府っていうのが、今までのような、いわゆる専業の役人、あのフルタイムの役人が、全部を受け持つ大きな政府だとしたら、これはもう財政的にもたない。そこで、コアな部分は、縮小した霞ヶ関なり、官庁なり、専業の役人が担当して、本当に必要な部分を、民間が担当するという「大きな政府」です。民間というのは、小泉さんの言うような民間企業ではなくて、民間人がやって行くということです。

わかりやすく言うと、たとえば教育のことに関してなら、教育はとても重要だから、大きな教育が必要だと考えるわけです。しかし、今までは、大きな教育というのは、文科省が中心になって、教育委員会だ、学校だ、免許持った先生だ、そういう人が全部を仕切っていて、その人たちが認めたものしか、教育ではないとしてやってきたわけですね。

imagesしかし、これから必要なのは、大きな教育を担うときに、たとえば出口さんが開発した教育メソッドのような、民間にこんな知恵があるなら、じゃ、これを取り入れたらいいじゃないか、あるいは民間人で、教員免許は持っていないけれど、学校の授業を手伝いたいという人がいれば、この人にも入ってもらえればいいじゃないか、というように考える。ただ、コアな部分は、それはやっぱりある程度、公的な流れがなければいけないから、文科省も必要だし、教育委員会や学校っていう枠組みも必要でしょう。

だから、コアは小さくしていって、大きな教育をやらなきゃいけない部分を、もっと国民を信頼して協力してもらってやっていこう、というのが、実は鳩山政権の考え方だったのです。

そういうことが全然国民に伝わらない。

寺脇

寺脇

出口

出口

今のお話には本当に大賛成というか、同じ考えです。政治ないしマスコミにも大きな問題があると思います。と同時に、かつての自民党政権がそうだったのですが、政府というのが、あまりにも説明能力を持っていないのではないかと思います。

たとえば、なぜ小さな政府が駄目かということも、きちんと説明すれば国民はわかるはずです。一番わかりにくいのが、「財源がない」という財政問題です。本当にないのか、僕たちにはわかりようがないのです。要は一般会計以外に特別会計があって、二つの財布を持っているとして、官僚は、表の財布だけ見せて、裏ではお金を隠しているとか、いろんなことを言われているけれども、これは本当なのかどうなのか、実態を知りようがないというのが大きな問題だと思います。それで、イメージだけが先行してしまう。で、マスコミがわーっと面白おかしくやっていくという構図です。ですから、まずは本当のことを全部きちんと伝えてくださいっていうのが、正直な思いですね。

マスコミの情報は、いつも正確で公正中立なのか

imagesマスコミについても、大きな公共サービスをやるために必要なのは、大きな政府か小さな政府かの議論と同じような問題があるのです。これだけの時代になって、国民の知的レベルも高くなりました。昔に比べれば、学歴も高くなったわけです。だから、「大きな情報」が必要なのですね、今の社会。ところが、大きな情報を提供するときに必要なのは、大きなマスコミじゃないのです。それはマスコミ自身も勘違いしています。官僚と同じで、自分の力を知らずにうぬぼれてしまって。官僚が、俺たちがいなきゃ大きなサービスが担えないと思っているみたいに、大新聞の人や全国ネットの放送局の人たちも、俺たちじゃなきゃ、国民の知る権利に応えられないって勘違いしているのです。

そこで、彼らの役割をある程度まで縮小して行きます。新聞社や放送局が提供する情報も一定程度必要で、その存在は間違いなく重要です。でも、それ以外の部分で、市民が情報がほしいというときに、そういうことに対応して情報を収集したり分析したりしているミニコミであるとか、ネットなどを通したミニコミであるとか、あるいはオンブズマンみたいな形に整えてほしい情報についての公開をピンポイントで求めていくとか、そういう情報伝達の流れを作って行くことが必要です。情報をマスコミだけに頼っていると、マスコミの記者に興味のないことは全然伝わってこなかったりするのです。

寺脇

寺脇

出口

出口

しかし、本当に正確な情報が伝わらないというのは、これはどうしてなのでしょうか。やっぱりマスコミだけでなく官僚も情報を隠しているということなのでしょうか。

それは両方ですね、いっしょですね。今、記者クラブ問題が提起されているのは、まさにそのことなのです。官僚とマスコミが記者クラブ制度の中で癒着している。

寺脇

寺脇

出口

出口

そこで情報がコントロールされてしまう。

imagesそれを崩していかなきゃいけません。官僚制だけを壊していってもダメで、マスコミのシステムを見直して行かないといけません。そういうふうに指摘しているのは田中康夫さんだけですけれども、政治家では。「政官」の癒着とか、「政官財」の癒着みたいなことが言われますが、そこに「報」が入っているのです。報道の「報」です。だから、「官報」の癒着っていうのは記者クラブ制度だということで、田中さんは記者クラブ制度を長野県知事時代にやめたわけですね。

寺脇

寺脇

出口

出口

それはもう大賛成です。やっぱり記者クラブっていうのは大きな問題を持っていますね。

つまりそれは、出口さんが、「こういう教育をすべきです」というように提案しても、「教育委員会でもなければ文科省でもなければ、学校の校長でもない人間が何を言ってるんだ」みたいに言われるのと同じように、マスコミの世界でも、たとえば1人のジャーナリストが何か言うと、「どこの会社にも所属してないような、ただの一介のフリージャーナリストが何を言ってるんだ」と言われる、そのようなことが起こっていたのです。

寺脇

寺脇

出口

出口

imagesそうですね。僕個人も実感することがあります。たとえば、これまで、教育に関してさまざまな提案をしたり、発言したり、教材を開発してきました。まったく新しい教育メソッドの『論理エンジン』は、私立の学校だけでも250校が採用しています。これは、日本の教育史上ありえないほどのことだと思います。

というのは、『論理エンジン』を採用するということは、単にたくさんある教材のひとつを採用するということではなくて、「すべての文章は『論理』で解ける。『論理』の理解・習得が読解力や表現力を育てる」という『論理エンジン』の考え方に、すべての先生が賛同して教えなくてはいけないっていう、ものすごいことなのです。

でも、ほとんどのマスコミはこうした動きを取り上げることはしません。なぜかと言えば、僕に対して、予備校の講師というイメージが強くあって、僕が何をやっても、まともには取り上げないという風潮があるからだと感じています。

imagesそうやってレッテルを貼ってしまうのが簡単だからです。それは文科省だって同じことですよ。新しい教育メソッドが出てきたときに、「それは誰が考えたのか」というようなことにこだわる場合があるのです。

たとえば、朝の10分間読書運動っていうのがあって、あれは千葉県の私立高校の一教員が考えついて、ご自分が勤務する学校でやったことなのです。朝と午後の10分間、読書をするという運動です。それがだんだん広がって、口コミで広がって行きました。まあそうは言っても数は知れている。で、それを、これはいいことだからって、文科省へ持って行きました。

そうすると、「そんな一高校教員が、ましてや私立の一高校教員が言っているようなことが何だっていうんだ」という調子です。それに、10分間読書の「ミソ」は、何を読んでもいいというところにあるのです。文科省推薦の本を10分間読みなさい、じゃなくって、偉い人の伝記でなくても何でもいい、野球小説みたいなものでもいいということでやっているわけです。

imagesしかし、文科省は、そんなものはだめだと言って取り合ってくれない。初等中等教育局でそれこそ門前払いされて、当時私が勤務していた生涯学習局においでになった。「これはすごくいいことですね。だけど学校じゃなかなか取り入れないでしょうね。でも、学校以外のところで社会教育としてやっていくという道はあると思うし、いずれ学校でもこういうことの価値に気づくでしょうね」みたいなことを私は言いました。

それから何年も経って、読書運動が始まって10年くらい経ってから急に、文科省は、学校側にすり寄ってきました。そして、朝の10分間読書運動はものすごい数の小・中学校に広がって行きました。だけど、最初のところでは、中身の検討をすることもなしに、「そういうことをお前が言ってきても・・・・・・」と、いうようなことをやっている。もうあらゆるところに同じようなことがあるということです。

寺脇

寺脇

「◯×式教育」では人材が育たない

出口

出口

imagesまた、ゆとり教育に話が戻るのですが、「総合的な学習の時間」、それから「生きる力をはぐくむ」っていう基本理念、ああいう考え方には僕はすごく賛成でした。僕もゆとり教育について実際の現場の声をいろいろ聞いていたのですが、最初は現場の先生もすごく混乱したようです。ようやくそれが理解できたとき、先生が自分で頭を使わなきゃだめだと思い至ったのです。

しかし、経験が足りなかったり指導力がなかったりという先生も多いわけですね。そんな中でも、意欲のある先生というのは、いろいろな工夫をして面白いことをやってきました。ようやくちょっと形になりそうになったときに、またガチャッと国の方針が大きく変わってしまう。

難しい上に効果が出るかどうかわからないものをやっても仕方ないと考える先生もいれば、積極的に進めていてすごく残念がっている先生も多いのです。ですから、もっと続けていたら、いろいろな面白いことが起こってくるだろうなあって、僕は思っていました。

imagesそれはもう、政治の責任ですね。小泉・安倍内閣のときに、ゆとり教育の重要な背景を直視することなく見直しが指示され、文科省もそれに動かされていったわけです。

近代っていうのは、「○×式教育」というのが相当有力なのです。完全に有力とまではいきませんけれどもね。いくら近代といっても○×式だけでいいわけはないのですから。ただ、○×式はすごく有効なわけです。どっちをとるか、どこへ行くかという時に、多数決をとって、少数派は多数派に従って行くことによってまとまって、国や社会が発展すると考えるわけです。この考え方で発展すると信じてやってきたわけです。

imagesしかし、脱近代という中で、成長が限界に陥ってきたときに、この状況の中でみんなが平和共存して行かねばならないということを考えると、「○×式で切り捨てられてしまう少数派」という考え方に目を向けなければいけなくなりますよね。そうすると、○×式のものの考え方のパーセンテージを下げて行かなきゃいけない。逆に言うと、○×式でない考え方を育てて行かなければいけないのです。

「総合学習」っていうのはまさにそういうことです。たとえば、「CO2を削減するのはいいことですか、悪いことですか?」って○×式で聞いたら、誰でも○って答えますよね。CO2が削減されないほうがいいなんていう人はいません。ところが、「あなたは冷房を使いたいですか、使いたくないですか?」って聞いたら、使いたいほうに○をつける人が多いでしょう。それでは矛盾するわけですよ。その中で、冷房をどれくらい我慢するのか、CO2削減についてどんな戦略をたてて行くのかということを考えなければいけない。○×式ではとうてい対処できないのです。

寺脇

寺脇

出口

出口

そうですよね。今のお話で、僕もいくつか頭に浮かんでくることがあります。たとえば、今のマスコミの世論調査が、まさに○×式ですよね。米軍基地の普天間移設問題に賛成か反対かと聞けば、みんな反対って言いますよ。でも、そんなふうに賛成か反対かを表明すればいいというような単純な問題ではないと思います。ところが、もうそこで、世論・国民はみんな反対しているとドーンとやってしまって、なんかこう世論操作して流れを作ってしまうように感じるのです。

そうです、そのとおりです。内閣支持率なんかまさにそうですよ。管内閣を支持しますか、しませんかって、そんなことを聞いているわけでしょう。

寺脇

寺脇

出口

出口

そうですよ、そんな単純なことではないですよね。

imagesだから、それはマスコミが、「○×式マスコミ」から抜けきっていないということです。このごろになって、さすがに、世論調査で、もう毎週のように内閣支持率を調べるのはいかがなものかって話が出てきたじゃないですか。そりゃ出てきますよ。それは結局マスコミが○×式をやめていないからです。

マスコミは、ゆとり教育がいいのか悪いのかみたいな○×式的なことを言うけれど、そんな簡単なものじゃない。そのゆとり教育的な部分を、入れていかなきゃいけないファクターと、そうではないファクターがあるのです。ゆとり教育になったからといって、たとえば、掛け算の九九を暗記するのをやめますって言っているわけじゃないのですから。

寺脇

寺脇

出口

出口

images今の○×式のことですけれども、先ほど、日本は模倣型の教育をずっとやってきたというお話をしました。で、結局模倣型って何かっていったら、あらゆる学習を、情報としてしかとらえていないというものです。となると、そこから総合学習という発想は湧いてこないのです。これを知っているか知っていないか、○か×かという、もう、全部分断された情報というか、その典型的なものが、異論はあると思いますが、学習指導要領だと思っています。

imagesこれは、大きく変えなきゃだめだと思います。というのは、文科省が、たとえば、中学1年の英語はこれだけのことを教えなさいと決めてしまう。でも、国語では、どんな情報を与えていいかわからないから、とりあえずは、その学年にふさわしい文章を並べておく。あとは先生がどう教えようとかまわない、何を教えても教えなくても別に問題は起こってこない、というのが国語という教科になってしまっていると思います。

こうやって、バラバラな情報の集まりというふうに、学習内容が分断されるのです。その結果○×式で学力を測ることになるという面もあります。また、国社数理外の学習がばらばらであって、さらに小中高と連続しなくなってしまうという問題も起こっていると思います。

それはそのとおりですね。小・中・高の分断、「小の理科、「中の理科」「高の理科」というようなことになってしまっています。

寺脇

寺脇

第二部 生涯にわたって学ぶために

誤解された学習指導要領

imagesたまたま昨日、文科省の大先輩の方が書いた、『戦後日本教育史』っていう本が送られてきたので、読んでみました。その中にあったのですが、私がゆとり教育を説明するときに、たとえば台形の公式が学習指導要領の小学校5年のところに、前は載っていましたが、もう載らなくなりましたと言ったら、大騒ぎになったというのです。「台形の公式よ、さようなら」などというふうに。

それはどういうことかというと、学習指導要領に対する大きな誤解があるからです。文科省側は、これは最低限、あとはもうどんどん、つまり、極端に言えば、これさえやればあとは先生方が自由に教えていいのです、いろいろなことを教えていいのですと言っている。ところが、現場の先生方は、これ以上は教えてはいけないというふうに解釈して指導しています。

そのことは、まあちょっと歴史的な流れがありまして、文科省に責任があるわけですが。これだけを教えていれば後は自由に教えてよい、だったものですから、1950年代から60年代、特に60年代から70年代にかけて、政治的偏向教育っていうものが、全国的に行われてしまったのです。何を教えてもいいのだからと、歴史教育ではマルクスで共産党が正しいみたいなことを教えたり。当然、これは何とかしなければならないということになりました。社会科で好き勝手なことを教えられたら困りますから。理科などは何を教えても特にかまわないのですが。

寺脇

寺脇

出口

出口

なるほど。

images結局、文科省自身が自分の首を絞めてしまった形なのですが、その偏向教育を防ぐために、学習指導要領に書いてあること以外はやっちゃいけないと受け取られるようなことを、その場しのぎで言ってしまったのです。それを教育現場がそのまま受け取ってしまい、誤解へと進んでしまったのです。

だから、学習指導要領は、変えるべきというよりは、本来の姿を徹底すべきですね。これはもう、これさえやっておけば、たとえば、掛け算の九九をやります。みんなこれやってくださいね、小学校2年生でやります、と。そのうえで、小学校2年生で台形の面積をやったってかまわないのです。どんどん発展して行っていい。子どもたちがやりたいというそれだけの知的好奇心と、それから学力がついてくれば、「ちょっと難しいことやってみるか」とやったって、全然かまわないのです。

それが、指導要領を超えることをやっちゃいけないかのような錯覚を生んでしまった。それを正していかないといけません。

寺脇

寺脇

出口

出口

images二つのポイントがあると思います。一つが、最低限これだけはやらなきゃいけないという学習内容の明確化。次に、特に、歴史などであまりにも極端なことを教えてはいけないということ。歴史に関しては人それぞれいろいろな解釈、いろいろな価値観があると思います。しかし、僕は、日本の場合はやっぱり憲法があるわけだから、憲法において戦争を放棄して、永久の平和を目指そうとうたっている限りは、その憲法に違反するような内容を教えてはいけないと思います。どんなに思想の違いがあっても、です。

最低限のことをきっちりやって、それを実感させたりどんどん発展させたりとなると、学習の内容は減らさなきゃだめでしょうね。今は、それが学力低下の元凶と言われて、どんどん学習内容を増やす方向になってしいました。

それは本来の寺脇さんの考える学習指導要領とは違うわけですよね。

images出口さんは「学習」っていう言葉をお使いになるけど、「教育」っていう言葉を、みんなが使いたがるわけです。今、出口さんは「学習を増やした」とおっしゃったけど、文科省は「教育を増やした」と言って威張っているわけです。やっぱり授業時間が少なすぎるので増やしましたとか、教科書を厚くしましたとか。「教育」をいくら増やしても、子どもに学力もつかなければ、生きる力もつかないのです。「学習」が増えれば、生きる力も、能力もつくわけですよ。そこがはき違えられていて、子どもに足りないことがあるって言ったら、「教科書を厚くすればいいのです。学校の授業時間を今まで5時間だったのを6時間にすればいいのです」という話になる。

imagesそうではなくて、子どもの持っている24時間っていうものがあるわけですから、その24時間の中の、たとえば学校で教育を受ける時間が6時間あるとするならば、その6時間を7時間にするということを考えるのではなく、それ以外の時間にどういう学習をしていくのか、それを考えなければならないということです。

もちろん、場としての学校はあってもいいのです。たとえば、先生の側が与える時間が6時間あるけれども、あと、子どもたちが自分の学びたいことを学ぶ時間が1時間か2時間あって、トータル8時間の学校です、ということなら。考え方を切り替えない限り、学校の授業時間が増えるっていうのは、模倣をしなさいっていう時間が増えて行くにすぎないのです。

寺脇

寺脇

出口

出口

おっしゃるとおりですよね。

先生が、たとえば「この文章はこういう意味なんだから、これを覚えなさい、こういう時はこうなる」と言うのではなくて、「ちゃんと自分で論理的に考えてみなさい」というように指導することが学習でしょう。それを、先生の言うことを覚えなさいというように、先生が一方的に教え込む時間を、いくら増やしたって意味はないということなのです。

寺脇

寺脇

出口

出口

imagesただ、問題はありますね。たとえば、僕が「教育をこう変えるべきではないか」と提案すると、先生も学校も賛同してくださるのですが、そこで必ず出てくるのが、「授業時間数が減っているのに、教科書が、指導要領が、これだけはやらなきゃいけないとしているので、とてもじゃないけど余裕はなく、それ以外のものはいいと思ってもできません」というのが、今の日本の教育の中で、支配的になっているわけです。

ちょっと不思議でならないのが、小・中学校ならばまだわかるのですが、高校に問題があるのです。高校の学習指導要領ってお読みになったことがあるでしょう。

寺脇

寺脇

出口

出口

はい、あります。

images何も書いてないじゃないですか。法的拘束力がある文部省告示の学習指導要領なのに、もう高校のものなんて、途方にくれるくらい簡単にしか書いていない。そして、申し訳ないけど、自分で考えるっていうことを先生方がしようとしない。そして、「いや、こんなに退行的なことでは困ってしまうから、もうちょっと何かいいものはありませんか」って言うから、学習指導要領の指導書みたいな分厚いものが出てきてしまうのです。

寺脇

寺脇

出口

出口

教科書会社の問題もけっこう大きいかもしれませんね。

imagesええ。教科書にも、また教科書の指導書があるでしょう。教科書のいわゆる「虎の巻」っていうものがあったりします。教科書会社にもおっしゃるとおり問題がある。

教科書がいかにおかしいかっていうと、今年の4月にメディアが大騒ぎしましたね。2011年から学習指導要領が変わって、ゆとり教育と決別して、学習内容が増え、教科書が分厚くなるみたいなことを言って、テレビで教科書の目方なんか測って、もう本当におかしなことをやっているじゃありませんか。ゆとり教育とは全然決別していないのだけれど、教科書の目方が増えることは事実です。で、何で目方が増えるかというと、教科書会社が、今度は目方を増やす競争をしているわけです。厚い教科書が売れるだろうと考えているのです。

寺脇

寺脇

出口

出口

なるほど。

これはどうしようもないなと思ったのは、教育基本法の改正がありましたね、安倍内閣のときに。

私は、必ずしもいいところばかりでもないし、悪いところばかりでもないと思うけれども、その中で、安倍さんは「美しい国日本」をスローガンに立ち上げて、日本の伝統を学べよと主張している。それは私も賛成。民主党の政権だって賛成でしょう。じゃあ教科書に何がどういうふうに出てきているかっていうと、小学校の5年生くらいの教科書に、世阿弥の心とかいって出ているわけです。あるいは歌舞伎の歴史とか。そんなふうに教科書に書いてあれば、子どもたちが歌舞伎や能、狂言が好きになったり、誇りに思ったりすると考えているとする考え方がおかしいです。

imagesむしろそれは、ゆとりを作る中で、土曜、日曜が休みになり、一方、総合学習の時間では、日本の文化に親しむなどさまざまな試みがなされ、子どもたちが、歌舞伎や能や狂言に触れる機会も飛躍的に増えているわけです。そういう変化の中で、今、小さい子どもたちが、能や狂言や歌舞伎に親しむ度合いっていうのが、僕らの子どものころに比べるとうんと広がっている。だけど、それを教科書に載せて覚えこませないと、わかったことにならないという考え方、それがおかしいと思います。

寺脇

寺脇

学習の「量」より「メソッド」に期待

images出口さんがお作りになった『論理エンジン』は、結局は「メソッド」なわけですね。教科書会社もメソッドっていうものを考えればいいのに、それをやらない。うがった見方をすれば、教科書が厚かったら価格を高くできるからじゃないかと思うくらい、目に見える量にして増やさないと、意味がないという考え方があるようです。

本当に大事なのは、目に見える量ではなくって、いかに的確に子どもの能力を高め、子どもの生きる力を高めて行くことにつながるかだと思います。

だから、学校が”メソッドを採用する”ということは、簡単には進まないと思いますね。形に見える分厚いものだと、これをいかにもやりましたっていう感じになるのですけれども、「考え方を変えればこういう教育ができる」、というようなものは、なかなか見えにくいものです。だから、それにお金を使うのはどうだろう、そういうことはありそうです。

寺脇

寺脇

出口

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images僕の、今やっている仕事というか、具体的な「絵」というのは、国語という考え方を捨てて、論理の理解とか、日本語における論理力というものをしっかり身につけようということです。たとえば、人の話の筋道をきちんと理解するとか、筋道をたてて話すとか、文章を筋道を立てて読み、それをまとめて説明し、筋の通った文章を書いて行くという、こうしたものをきちんと学んでいくということです。

これが、コンピュータにおけるOSにあたるものかなと思っています。言語処理能力と言えばいいでしょうか。これを高めると、OSに乗っかって、初めていろいろな学習が動いて行くという考え方です。となると、今の国社数理外とか、小中高っていう分断した考え方を、全部取っ払って考えないとできないのです。すべての学校や教科の共通点をOSとして取り扱うことによって、小中高と分けることなく連続してずっと論理力を鍛えこむことができるし、それにのっかって、日本語を使うあらゆる教科の理解を促して行きます。こういうことをやっています。

いや、本当に大事なことですよ。「論理力とはコミュニケーション能力」と言ってもいいでしょうね。要は、何を相手に伝えるのか、それから相手の何を理解するのか。そのために必須な能力ですね。日本の国語教育というものが、字句の意味を学ぶ訓詁学みたいになってしまって、漱石が出てくれば、これはこういう意味だっていうことを教える。でもこれだけでは、人にものを教える面白さも伝わる面白さもなくなってしまう。それこそ文科省教育の悪いところだって言われたりします。

たとえば、「春の小川がさらさらいくよ」って“さらさら”じゃなくて、他の表現じゃいけないのか、というような疑問に対して、「いや、さらさらだ」、みたいに答えてしまう、そんなところですね。国語っていうか、言語っていうのは、ものを伝える媒体で、手段ですよね。その手段を目的化してしまって、国語力とかいうわけのわからないものに閉じこめてしまったということなのです。

寺脇

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出口

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そうですね。おっしゃるとおりです。そうするともう、国語はセンス・感覚の教科だ、というふうに思い違いしてしまいます。

だから、日本の英語教育が間違っていたということは、もう誰でもがわかっているのに、国語教育も同じことをやってきたということが理解できていないのですよ。

寺脇

寺脇

出口

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これを本当に進めようと考えたら、今の教科書とか、さまざまな枠組みでは実現が難しくなっている。それとやっぱり、物事を全部情報としてとらえる考え方っていうのも変えていかなきゃだめですね。そういう意味では、生きる力をはぐくむ総合学習っていうのは、僕は絶対になくしちゃならないものだと思います。

images総合学習はさっき言ったように○×式ではない考え方にしていくものです。さっき私は、ゆとり教育というのは、メディアが付けた名称だと言いましたが、じゃ文科省的には何なのかって言うと、まあ別に公式に定めた名称はないですけれども、私に言わせれば、臨教審の流れから、「生涯学習」です。つまり、それまでの、学校で詰め込みます、終わった瞬間一切学びませんでした、なんていうことじゃなしに、生涯にわたって学んでいく、その基礎を学校が提供するということです。

あえて国語以外の教科で話すなら、美術、あるいは音楽がありますね。これも授業時間数が減ったわけです。いわゆるゆとり教育の中で。理科とか数学の先生は授業時間数が減った、イコール学力が下がると思っている。じゃ、音楽の先生や美術の先生がそう思っているかと言うと、実はそうじゃないですね。美術とか音楽というものは、もう明らかに生涯にわたって親しむものじゃないですか。学校を卒業してまで数学をやる人はまずいないけれど、学校を卒業しても、ほとんどの人は音楽とは縁が切れないし、美術とも縁が切れない。

だとするならば、ここで中学校の授業時間が1時間減ったことを問題にするのではなくて、全体の中で、生涯学ぶということに通じる新たな視点で考えていかなくてはならない。小学校の図画工作、中学校の美術、高校の美術って切り分けていたのじゃだめなのです。

imagesつまり、生涯を考えるというときに、教育を小中高で分断していたらおかしいわけです。ここで、「流れ」を作って、その流れをずーっと生涯にわたって通して行くという考え方が必要です。今まではそこに、「堰」があって、「ダム」があって、つまり、小学校が修了するとここで一段落、中学校で一段落みたいなことがあり、今度は高校を卒業したらここで一段落で、もう後はやらなくてもいいやなんて思ってしまうことがあるでしょう。

そこで、美術の学習や楽しみ方を「流れ」として作っておけば、高校を卒業しても、いろいろなすばらしいことに出合うことができます。

寺脇

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出口

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おっしゃるとおりですよね。ただ、そうやって全部分断してしまった、そのさらに前にある原因というのが、さっき言ったように、物事を情報としてしかとらえていないような後進型の教育になっていることではないでしょうか。だから、情報を減らせばゆとりであって、今度学力が落ちたようだから情報を増やせば学力が伸びるっていうような、おかしな考え方がどこかにあったんじゃないかなって思いますね。

何で分断してしまう堰があるのか、これはおかしいですよね。でも、その背景は単純なのです。近代の教育プロセスの中で、最初は、全員行けるのが小学校までだったから、ここで一つの区切りを作って、ここまでにこの力をつけましょうとやっていました。次は、中学校までみんな行けるようになったからと、ここで堰を作った。しかし、いまやほとんど全員が高校まで行くのだから、途中に堰を作る必要なんかないのですよ。

寺脇

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出口

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imagesやっぱり、時代の変化がすごく大きいっていうことなのですね。一つが、日本が近代化に成功して、今度は模倣じゃなくて、自分たちが世界の最先端で物を作っていかなきゃだめだという状況があります。さらにもう一つ、さっきおっしゃったように、発展型っていうのは、もう時代に即さないというか、過度に物を生産することはイコール自然を破壊することになります。となると方向転換をして行かなければなりません。

昔は大学というのは一部のエリートしか行きませんでした。で、一部のエリートが実際に物事を決めて、大多数の国民は無知でもかまわなかった。それに従えばよかったのですね。しかし、今はすべての国民が、高度な現代社会を理解して、正しい判断をし、社会にかかわっていく義務があると思います。だから、こうした時代での教育はかつてと全然違ってくるはずだと思いますね。

images今おっしゃったことは両方とも正しいですね。最先端と言う時に、頭の古い人たちは、だからトヨタなんだPanasonicだとか言うけれど、最先端にも限界があるわけですよ。トヨタがいくら自動車のトップメーカーだからといっても、空を飛ぶ自動車なんか作れやしないのです。自動車がまだ発展の余地があったころは、日本が最先端を行っていたということはあるんだけれど。頭打ちになってくれば追いついてきますよ、みんな。これ以上発展のしようがないのだから追いついていく。

しかし、日本が最先端まで行ける分野はまだいっぱいあります。たとえば高齢化の最先端を日本が行っているわけですから、高齢化に対応するサービスとか商品は必要でしょう。あるいは、少子化も日本が世界の先頭を走っているのですから、それに対応する新しい考え方やものが必要でしょう。さらには環境技術とか。まだいっぱい発展することがあるわけです。

だから、日本は世界中で自動車を作る競争をしている時代から決別して、そういう必要性が高く発展が求められているところへ乗り出して行きましょう。あるいは農業国家と言われるような国には、農産物を大量生産する技術を開発しましょう。それから、日本みたいに国土が狭く農産物がたくさん作れないところは、今までになかった新しい品種、価値の高いすごい作物を作ることでやりましょうとか。そういうことになってくるのですね。

だから、模倣の仕様がないのです。創造しなきゃいけないのですよ。

寺脇

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論理力が日本語を「創造するための言語」に変える

出口

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そうですね。でも、今、教育がそれにまったく対応できてないというのが現状だと思います。

imagesだから、国語だって英語だってそうなのです。国語はなんとなく空気みたいなものだから、みんなありがたみがあんまりわかってないけれど、日本の英語は、まさに読み書き中心主義で、何年勉強しても聞くことや話すことができないじゃないですか。あれは模倣のための言語としてあったわけで、読めればよかったのですね。まさに読むことが一番大事だったのでしょう。

寺脇

寺脇

出口

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そうですよね。蘭学をずっと引きずっていますよね。

images出口さんが最初のほうでおっしゃったように、蘭学にしても、明治になってヨーロッパの言葉を学んだにしても、「模倣するための言語」だった。これからは「創造するための言語」にならなきゃいけない。だから、論理力が必要なのです。日本語を、「創造するための言語」にするために、です。通る企画書を書くとか、勝つプレゼンテーションをするとか、まさにそのような力をつける教育を進めていかなければならない。

寺脇

寺脇

出口

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日本語でものごとを理解して考える力ですね。あるいはコミュニケーションする能力。

そうです。相手に理解させる力です。

寺脇

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出口

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国際社会の中でこのことが必要になってきています。日本語のスキルができてないのに、いくら英語を学習してもだめですね。

imagesそうです。英語は、母語でない限りは、基本的にはトランスレートするための手段です。もともとこの世に生まれた瞬間から、英語でものを考える人はいないわけですから。私たちは母語である日本語で考えるわけです。その母語が、創造するものでなければいけないのに、伝達する手段になっている。たとえば、漢字をたくさん覚えなさいみたいな考え方っていうのは、要するに、トランスレートするためには漢字をたくさん知っていれば便利だからです。しかし、そういうことではなくて、極端に言えば、漢字はたくさん知らなくても、表現能力が高ければいいのではないかということじゃないでしょうか。

寺脇

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出口

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images今の時代でちょっと心配に思うことがあります。僕は言語には「論理の言葉」「感情語」があると考えています。何も論理の言葉が一番大事だと言うのではありませんが。ところが、論理の言葉というものを習得する機会を、今の子どもたちは持っていないのです。昔などは、思想関連の本を読んだりとか、議論したりとか、そういう機会がたくさんあった。しかし、今は子どもたちは議論しないし、あるいは、硬い評論などを読むことはないでしょう。また、文学を読まずに、携帯小説みたいなものを読む。文章書いても、メールでは絵文字なんかが多い。このへんは全部感情語ですね。で、漫画とか音楽とか、それは、良い悪いじゃなくて、そういうものがあふれかえっている。今の子どもたちというのは、論理の言葉を習得する場を全く持っていないのです。その結果、国語は、非常に恣意的なものになってしまっています。

となると、論理的に言葉を使いこなすことができないような、こういった世代が、参政権を持って、世論を形成して、政治を作っていく。これをどこかで断ち切らないと、日本の国というのは滅んでしまうのではないかと思うのです。

そのとおりですね。

教育に総合学習みたいなものがないころは、同学年の同じクラスに同じような力を持った子どもがいて、先生から、ある程度論理を教わったかもしれないけれど、使う機会がないじゃないですか、同級生同士だったら。絵文字で済んでしまうわけだし、流行語使って仲間うちの言い方で不便はないわけです。だから、総合学習の一つの存在理由というのは、たとえばですね、子どもたちが職場体験をします、保育園に行くとします。そのときに、保育園訪問のお願いの手紙を書くことから始まる。とにかく保育園の先生と、コミュニケーションをとらなくてはいけなくなる。そうすると、仲間うちの言葉では通じないということがわかります。世の中はこうなんだっていうことを知って帰ってくるわけです。そういう場を作らないと、表現方法だけ教えても、使わなきゃ伸びないわけでしょう。

寺脇

寺脇

出口

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ですから、総合学習で、社会のいろいろな所でいろいろな経験した子どもたちは、論理の大切さを発見したり、使い方を学習したりします。そういう生きた経験をすることが必要だということとともに、きちんとそれを訓練する場が必要だと思うのです。

でも、今の教育の中で、あるいは子どもたちの環境の中で、本当に日本語をしっかりと訓練・習得する場がどこにもないというのが、すごく大きな問題です。そこに、僕が『論理エンジン』というプログラムをどうしても作らねばならないと考えた理由のひとつは、そこにあります。

images小・中学校は基礎教育だからまだいいとして、高校になったらもうドラスティックにね、うちの学校はこういう教育をやりますと、私たちはこういう教育をやりますと、外部にどんどん広報することが必要だと思うのです。高校にこそ斬新な、冒険的なメソッドがどんどん現れてこなきゃいけないと思うのに、逆ですね。高校は、センター試験でいい点数をとるようなメソッドにしか関心がないでしょう。

今、出口さんの『論理エンジン』を採用している学校というのは、受験系の学校、つまり受験ばかり気にしている学校と、そうでない学校がありますが、どちらでしょう。

寺脇

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出口

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images両方です。どちらも採用しています。受験勉強の場合は、実際に論理力を鍛えていくと成績が上がるんですよ。それも、国語だけじゃなくて、あらゆる教科の成績が上がる。特に国公立大入試の場合、2次試験の記述力・論述力対策が必要だということで、『論理エンジン』を使えばとても力がつく。だから、進学実績を上げるということで導入する学校が多いのです。

でも一方で、進学校ではない学校でも、導入しているところがあります。これはよく言われることですが、就職する生徒は当然で、専門学校に行く生徒のほうが、大学に進学する生徒よりも早く社会に出ていくことになります。社会に入ったら、他者との間でコミュニケーションをしていかなきゃだめですから、論理力が必要になります。ここに着目して『論理エンジン』を採用するのだと思います。

大学に入る生徒だって、いつかは社会に出て行くわけですからね。論理力が必要だということです。これはよくわかりますよ。

寺脇

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社会に出ることを想定した学校の教育

imagesセンター試験で高得点を取ることだけを目指している高校っていうのは、公立の進学校に多いわけです。つまり、センター試験をクリアするところまでが学校の責任だと思っているのです。今おっしゃったようにもう一歩踏み込めばいいのですが。

センター試験は○×式っていうか選択式で、記述を求めたりしません。しかし、その先には当然、2次試験があり、その試験の中では論理力が問われます。あるいはさらにその先、大学院を受けるときなどは、もうまさに論文作成能力です。論理力がモノを言う世界です。

社会に出るところまで見込んで指導している高校はいいのですが、とりあえず大学に入れておけばいいと考える高校では、センター試験対策の時間を確保するために、世界史などをすっとばすことがあります。そういうところはおそらく、出口さんのメソッドは取り入れようとしないでしょうね。

寺脇

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出口

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『論理エンジン』を採用している公立高校で、センター試験対策のために世界史をやらないというようなところはないでしょうね。

imagesとにかく合格実績をあげようとしますよね。しかし、公立高校だから教材導入の予算がないっていうことはないですね。公立の小中学校の場合は、新しい教材を採用しようと思っても予算がない。これはわかります。しかし、公立の地方の進学校というのは、予備校のような機能を持った組織を備えていますよね。それは、どうやって運営されているかというと、もちろんそれに、税金は支出されていません。そういう学校には、後援会とか、校友会とかいうところがあります。ここがお金を集めます。たとえば、高校野球で、甲子園に出るっていうと1千万とか2千万とかすぐ集まるじゃないですか。つまり、スポーツの強い学校には、甲子園に行くなりインターハイに行くという時にはお金が集まるのです。同じように進学校には進学対策用のお金が集まるのですよ。

その集まっているお金を、何に使うかは別にして、勧められた教材などの導入を断る理由として、お金がないといっているのにすぎないのだと思いますよ。本当にそれが生徒に必要だと考えたら、集まっているお金を利用して、それを採用するということです。

寺脇

寺脇

出口

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いいことをお聞きしました(笑)。そうですね。今、中学校はちょっといろいろな問題があって難しいようですけれども、高校はたしかにそうですよね。

images中学校だって、それこそ有名な学習塾のSAPIXに課外授業を頼んだりしているところもあるじゃないですか。杉並区立の和田中学校がそうですね。大阪では、橋下府知事の強い希望で、SAPIXに授業を担当してもらおうって言っていますね。SAPIXの代わりに、たとえば出口さんの新教材や他の指導組織の導入もありじゃないですか。それを、中身を検討しないでSAPIXならオッケーみたいな話になっていて、これは変ですよ。

寺脇

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出口

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おっしゃるとおりですね。

誠実じゃないです。和田中は一つの中学校だから、藤原先生が、SAPIXがいいと思ってとってきた、それはそれでいいでしょう。校長の決定だから。じゃ、大阪中の学校がSAPIXと連携するなんていうのは変な話で、各学校が、どこに頼むか、何を採用するかということを十分に考えて、比較検討して、このメソッドがいいと思えばそれを入ればいいのですよ。

寺脇

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出口

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おそらくそういう比較も検討もしていないと思いますね、今は。

imagesだから、やるんだったらきちんとね。私は、中学校くらいまでは、学校だけの力でなんとかしてほしいと思っていますが、外部のサポートを受けるということも悪いことではないでしょう。でも、それを一律にしたら変でしょう。だって、大阪だって、新しい住宅地にある中学校もあれば、下町の古くからの商業地域の中学校もあって、環境や保護者の考え方がそれぞれ違う。それなのに、同じメソッドでいいかどうかはわからないじゃないですか。

寺脇

寺脇

出口

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ましてや、単に進学実績を上げるためだけのメソッドっていうのは、これはちょっと問題だと思いますね。

そうですよ。多くの公立高校は、センター試験で何点取るかということに目が行っちゃっているわけです。だから、出口さん的な考え方を、進学選択に結びつけなければならない。自分の偏差値に合えばどこでもいいみたいな生徒に論理力なんかあるわけないじゃないですか。

自分は、たとえば宇宙の仕事をしたい。宇宙の仕事をしたいので、宇宙に関係する、こうした勉強ができる○○大学工学部を受けたいっていうふうに考えなきゃいけない。それなのに、生徒だけではなく学校も、センター試験の点数で、この点数ならあそこは大丈夫だから受けなさい、みたいな指導をしてしまう。全く論理的ではないですよね。だから、出口さんがおっしゃったように、論理力が身につくということは、高校生に即して言うならば、なぜ自分は○○大学の○学部を受けるのかということを、論理的に人に説明できるようにならなきゃいけないっていうことですよね。

寺脇

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出口

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そうですね。本当に、いろいろな意味で、日本の教育っていうのは、抜本的に考え直さなきゃだめな時期にきています。

imagesもう本当に考えなきゃいけない。高校なんですよ、問題が多いのは。小中学校は、私自身もいろいろ言っていますが、実は、小学校ではもうゆとり教育の成果っていうのがどんどん出てきているし、中学校でも、小学校の流れ、延長で出てきた。問題は、高校が、○×式や、それこそ模倣型から抜けていないことなのです。

寺脇

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出口

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imagesおっしゃるとおりですよね。もう一つ思ったことがあります。たとえば、かつて、安倍首相が、「美しい日本」と盛んに言い、道徳教育が必要とも言われました。僕も、日本の伝統文化を理解するとか、あるいは、道徳心をきちんと子どもたちに植え付けるというのはすごく大事だと思います。でも基本的に僕は今のやり方には反対ですよ。

なぜかと言えば、一人ひとりの子どもが、自分の頭でものごとを正しく理解し、正しい判断ができる力がついて初めて、道徳心とか、美しい日本と思う気持ちが起こってくると考えているからです。

imagesそれが、その力をつけることを全くせずに、安易に道徳心とか、日本の伝統文化を学ぼうというようなことを教育に入れてしまうと、これは権力者の思うままになってしまうことにもなりかねない。かつて、こういう失敗をしたはずです。道徳心や日本の伝統文化は、教育にどうしても入れたいことではあるのですが、入れるならば、先行して、もしくは、同時並行でもいいから、しっかりと子どもたちが論理的に物事を考え、正しい判断力をつけるという教育を徹底してやるべきだと思いますね。

そのとおりですね。それが大前提です。だから、安倍さんたちが言っていることというのは、それこそ論理性がないと言いたくなります。

寺脇

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出口

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そう思いますね。自分の固定観念だけで政策を考えているような気がしますよね。

第三部 総戦力で教育していく態勢が必要

論理がなければ、道徳も根付かない

imagesたとえば小学生に、私も授業させてもらうことがある小学校で、お年寄りに席を譲りなさいということを、道徳として教えます。でも、ちょっと待ってほしい。なぜ、お年寄りに席を譲らなければいけないのか、そういう話が出てこないのです。

小学生に理解させるために、たとえば、私はこういうふうに言います。 「ここにおにぎりが1個あります。私と、たとえば出口さんがいます。で、私は今ご飯を食べたばっかりで、お腹がいっぱいだとします。出口さんは、もう2日も何も食べていない。このおにぎりをどうしますか」と。

2人で半分ずつ分けて食べるのか、出口さんが食べるのか、私が食べるのかって聞いたら、まあ、当然、出口さんが食べるべきだってみんな言いますよ。

imagesそれと同じように、さっきのお年寄りに席を譲る話は、「ここに空いている席が一つあります。きみが座るのかいいのか、それともおじいさんが座るのか、どっちですか」と問います。そして、「きみは、揺れる電車の中でも立っていられるだけの足腰を持っています。おじいさんは持っていません。だからおじいさんが座るのがいいんじゃないでしょうか」というように論理的に考える方向にもっていきます。

ところが、これには道徳関係の人たちは怒りますよ。そんなの理屈じゃなくて道徳の問題だろう、って。だけど、論理的なものがついてこないと子どもたちには根付かない。戦前の人たちだって、何も道徳心だけで子どもに言っていたわけじゃなく、論理的に正しいかどうか、きっと頭の中で計算していたのだろうと思います。

寺脇

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出口

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もう一点あると思います。それは、論理力とほとんど表裏一体だと思っているのですが、想像力が大切だということです。その子どもが、満員電車の中で必死で立っているおじいさんの気持ちをどれだけ自分に近いものとして実感できるか。想像力さえあれば、自分は平気なんだけど、おじいさんは大変なんだろうな、という思いで席を譲れると思います。

それは、総合学習でよくやります。まあ、あそこまでやらなくてもよいのにと思うこともありますが。

総合学習で、老人体験などをやります。お年寄りになるとどれだけ体が動かなくなるのかという体験学習です。手足に重りなどをつけて動きにくくしたり、あるいは目が不自由になるとどうなるのかというブラインド体験をしたりします。そういう中で理解していきます。それは、論理に加えて体験が必要だということです。つまり、生理的感覚というものを持たずに、バーチャルで生きていたら、それは理解できないということですよ。

寺脇

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「平等」が保証されて「自由」な競争が実現する

出口

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こんなふうにいろいろお話していると、やはり、教育には政治が結びついているという気がしてきますね。

images具体的にどんな教育をするのかということは下部構造です、最初に言ったように。で、政治は上部構造と結びついています。だから、日本の教育が不幸なのは、戦後、与党自民党と野党社会党の二大政党の時代、いわゆる「55年体制」の時代に、世界を巻き込んだ冷戦構造の投影の中で、社会主義革命か、保守自由主義かという対立がありました。それが、教育の上部構造に持ち込まれていた時代が長かったことです。ですから、上部構造との関係を断ち切ろうという意識が、中間構造である文科省の中にあったわけです。

しかし、今に至っては、どう考えても、社会主義革命なんか起こるわけがないでしょう。そうすると、今の二大政党制の中で、両方ともちゃんと責任政党として、この社会を維持しようという考え方を持つのならば、今こそ、上部構造と下部構造、教育現場を結び付けて行かなければならないのです。

寺脇

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出口

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images僕が中学生の時だったと思います。社会科で、資本主義と共産主義があって、要は資本主義というのは、自由だけど平等がない。共産主義は、平等だけど自由がない。では、どっちがいいか、なんてことを先生に聞かれたことがありました。

僕はどっちも必要だと考えたのですが、今思えば、あの時の先生の質問はおかしかったと思っています。というのは、自由も平等も両立するものだからです。もっと言うならば、何もしない人も一生懸命働く人も、同じように平等に扱うというのではなくて、要は、それぞれに必要な機会を平等に与えたかどうかだと思うのです。

そうですね。

寺脇

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出口

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imagesその上でじゃないと、自由競争ってありえないと思います。同じような条件の中で競争して初めて、自由競争というものが成り立つし、その平等な条件っていうのは、社会が保障しなければだめなものです。

たとえば、教育について言えば、実際には、お金を持っているところと、お金を持っていないところは、平等の教育を受けてはいません。で、不平等な状況の中で自由競争です。そして、負けたら「お前のせいだ」と言われるのは、ちょっと話が違うのではないかと思います。

images私の個人的な考えですけれども、自由と平等っていうのは、次元が違うのです。自由というのは、基本的に目的ですよ。目指すものです。これに対して、平等というのは、手段でしょう。通過地点でしょう。まず平等が実現して次に何がくるかといえば、それは自由の実現で、自由が実現して次にくるのは何かっていったら、それは自由に何かをするということです。いろいろな何かができるのです。

共産主義がうまくいかなかったのは、どこの国でもそうだけれども、平等が実現したその後、何が起こるかと考えたときに、何も希望がないわけですよ。それは、平等を目的にしているからなのです。

寺脇

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出口

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実は、僕は本当の平等というのはあり得ないと思っているんですよ。平等にしようと思ったら、すべての人々に平等に分配するための大きな組織が必要になってきますね。組織は上下関係で成り立っていますから、その中で上位にいる官僚が組織を、そして社会を支配する力を持ってしまう。平等ではなくなるわけです。

そうですね。それで政党に幹部ができるみたいな、特別な階級の誕生です。

寺脇

寺脇

出口

出口

それでは平等にはなり得ませんよね。

images今、共産主義で統治されている北朝鮮が平等社会ではないということは、もう誰にでもわかっているじゃないですか。金正日と、飢えている農民が同じで平等なわけがない。だからそれは、治める民を平等にしているという錯覚、つまり民は、自分たちは平等に扱われているのだから、支配者がいることに納得するというような、むしろ封建主義的構造ですよね。

寺脇

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出口

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imagesだから、平等っていうのは、これからの社会では現実的な目的ではないのですから、平等な条件とか機会の中で、自由な競争ができる社会を、どうやってつくって行くか考えていかなければならないのです。

そうですね。日本でも、一時期、教育をだめにしてしまったのは平等思想でした。つまり、全員が東大を目指すことができる、それがいいことだと錯覚しました。また機会平等も勘違いされているのです。全員に東大を受験する機会を与えることが平等だって勘違いしているのです。

寺脇

寺脇

出口

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大きな勘違いですね。

望むところ・ことに挑戦できるチャンスを与える

images東大に行きたい人、たとえば、ある集団の100人中20人東大に行きたい人がいて、この20人に東大を受けるチャンスを与えるということはすごくいいことです。しかし、受けたいと思っていない人に受けるチャンスを与えて、「平等でうれしいだろう」と言ったって、「冗談じゃないよ」ということになる。「僕は、農業で日本一になりたいと思っているのに、なんでこっちに行く勉強をしなきゃいけないのと、いうことがあるわけです。

さっきちょっと触れましたけど、日本の農業って、ものすごく可能性を持っています。成長産業ですよ。私はしみじみ思いますね。今から20、30年前に、優秀な人材がもっともっと農業関係に向かうような筋道を作っていたら、今はすごいことになっていたのだと。

ところが、みんな東大目指せって言って、東大に行けなかった人間がここに行き、あっちにいき、希望どおりの系統や大学に進学できなかった人も少なくなかった。そういう経過の中でさえ、日本の農業が今日世界から大きく注目されている。だから、もっと前から、生徒が希望する大学や学部に行くという指導をしていたら、日本の農業はもっとすごいことになっていたと思います。そして、みんながそれを誇りに思うことで、ますます農業は進展していきます。

imagesところが、全員が東大に行けるはずだみたいな妄想の中で、行きたくもない生徒にまで、東大に行くためにセンター試験を受けて高得点を取りなさい、高校受験生には、普通科の進学校に行きなさいみたいなことを言っていたわけです。

機会の平等っていうのは、同じところに行けるという機会を与えるのではなくて、その人が望むところに行く機会を与えるということだと思います。

寺脇

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出口

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imagesそういう意味でも、極端なことを言うようですが、すべての学校を無料にした方が面白いなと思います。高校も予備校も関係なく。それはもう、生徒が好きなところを選べばいいとするのです。そうなれば、各高校も予備校もそれぞれ独自の教育というものを打ち出してくると思います。そして、各高校や予備校は、教育の結果として、進学実績や教育効果などについて責任をとらなければならない。それが本当の平等じゃないかと思いますね。

実は、今の民主党政権で、私と文科省副大臣の鈴木さんの本の中でも言っているのですが、それに一歩近づいているわけですよ。どういうことかと言うと、高校授業料無償化、それから子ども手当です。

寺脇

寺脇

出口

出口

僕は大賛成ですね。

それで、子ども手当を考えるときに、たとえば、子ども手当を全部フリースクールに使えば、フリースクールが無料化したのと同じことじゃないか、そういう理解をどうしてできないのかと思います。そのへんが曖昧にされたまま、ただお金がばらまかれているというような議論になっている。

寺脇

寺脇

出口

出口

親がパチンコに使ったらどうするのかというような議論ですよね。

imagesそういう話になってしまうのですね。はっきりアナウンスしなきゃいけないんですよ。

子ども手当を、まだ完全にはいきませんが、子ども手当を出します。高校授業料を無償化します。公立高校の無償化だけでなく、私立高校も、さらに補助したりしますから、無償に近くなります。少なくとも前よりはかなり安くなります、と。

ところが、塾とか、フリースクールなど、高校以外のところで学ぶ人にはそうした恩恵は行きません。今度の子ども手当はそういう人たちのところにも行くようにするという筋道なのです。そういうサインをはっきり示すことが必要です。

それで国民的コンセンサスを得ていきます。だれでも、どこで学ぼうとも、学ぶ権利を保障することが、まさに機会平等なのだというコンセンサスです。

寺脇

寺脇

出口

出口

imagesそうですよね。だからそのへんも、政府の説明がちょっとへたというのでしょうか、単に税金の無駄遣いをやっているんじゃないか、バラマキじゃないかと批判されています。しかし、これはバラマキなどではなく、日本の社会の構造をどう変えるかという問題です。日本の将来を、コンクリートのパノラマみたいに描くか、「発展」にしがみつかない新しい社会構造を作っていくかというビジョンの問題だと思います。

imagesそのビジョンは、昔だったらエリートが作っていたのですが、今はみんなが責任を持って政治に参画する時代です。そういう中で選挙の結果、民主党が政権を担当することになったのです。民主党の政策を十分に理解し、責任を感じて、批判や協力を行っていくべきではないでしょうか。

寺脇

寺脇

出口

出口

そうですよね。おっしゃるとおりですよね。

論理力がつけば、情報の取捨選択・比較ができる

出口

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ゆとり教育を推進してきて、その後、見直しを検討したのは、小泉内閣のときでしたか?

images教育再生会議ですね。これは、安倍内閣のときです。2006年に設置されました。

小泉さんはね、もう教育に関心がなかったのです。全くなかったのですが、小泉さんは、別段教育を曲げたわけじゃないし、ゆとり教育をやめろと言ったわけでもないのです。小泉さんは本当に論理性がなくて、国会で「ゆとり教育でいいのか」って聞かれると、「いやあ、僕の子どものころは、ゆとりばっかりだったから、こんな小泉になってよかったでしょう」みたいなことを国会で答弁する能天気な人です。ただ、経済政策を、今後の成長を期待して旗を振ったから、政治が脱近代を考えることをストップしてしまったわけですよね。

寺脇

寺脇

出口

出口

imagesそうですよね。その教育再生会議のメンバーを見て愕然としました。僕から見ても、安倍内閣に都合のいい人だけを、マスコミ受けする人だけを集めたっていう感じでした。

そのとおりです。

寺脇

寺脇

出口

出口

あれはもう本当に意味なかったなあと思っています。

imagesそうです。あれは全然意味がなかった。さすがに、保守陣営からも意味のなかったものだと言われています。まさに、お友達政治っていうものの極みですね。それはもうはっきりわかっていた。中曽根さんが選んだ臨教審のメンバー、小渕総理が選んだ、2000年の教育改革国民会議のそのときのメンバー、それから安倍さんが選んだメンバー、比べてみたら、もう全然違う。

中曽根さんのときには、いわば、横綱・大関・関脇が並んでいるような番付、というか顔ぶれ。で、小渕さんのときだって、横綱・大関・関脇のような顔ぶれですよ。ところが、安倍さんの教育再生会議っていうのは、もう平幕から十両みたいな人たちの集まりでしたからね。 

寺脇

寺脇

出口

出口

僕もそういうイメージを持ちました。

しかも、さっき言ったように、中曽根さんのときは3年かけて検討したわけですよね。丸3年。で、小渕さんから森さん、小渕・森政権の時の、教育改革国民会議っていうのは、それでも1年以上かけてやった。教育再生会議にいたっては、実質数か月でゆとり教育の見直しなどの報告書を作ったのです。

寺脇

寺脇

出口

出口

これからの日本のビジョンとして、教育をどの方向に持っていくかという点については、どこがどのように考えていくのでしょうか。

imagesこの次は文科省の鈴木副大臣にこの席に座って欲しいと思いますが、鈴木さんは、さらに一歩進んだことを考えているんです。つまり、中教審のようなトップの人たちの議論も、もちろんもう一度やってもらう。責任ある立場の専門家の人たちの意見集約と同時に、です。国民も責任を持つべきだとする考え方に立つならば、国民も議論に参加してもらいます。

国民が知らないところで議論が進み、いつのまにか政策が決まったなんてことにならない環境も整備されました。「文部科学省(政策エンジン)熟議カケアイ」という名称のサイトがあります。インターネットで「熟議カケアイ」と入力すればすぐアクセスできます。ここを国民全部にオープンにして、たとえば、「学校の先生というのはどういう資質が必要だと思いますか」ということについて、大々的に国民から意見を求めているのです。で、こういう意見がこうあったと、集約・分析して、それを政策論議の際の参考にします。

かつ、中央教育審議会みたいな、そういう専門家の意見も聞きます。そして最後は、政治が、それこそ上部構造であるところの政治が、責任を持って判断しようという仕組みを、今作ろうとしているのです。

imagesこのことも、もっと国民に周知徹底しなきゃいけないのですが、周知という点では、政府はマスコミに比べればその力がとても弱いのです。マスコミに頼るところが大きいのが現状です。

ところが、たとえば、鳩山さんが総理として、「私は東アジア共同体もやりたい。新しい公共も作りたい。教育はこのように変えたい。沖縄はこうしたい」って言った場合、このうち沖縄のことだけが報道されてしまうということになるのですね。思うように情報が伝わらないのです。

寺脇

寺脇

出口

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本当に、マスコミも大きな問題を持っていると思いますが、現状ではマスコミの力を上手く利用してやっていくしかないと思います。

imagesこれから先、まさに、論理教育が重要になるのは、論理力がつくと、当然、メディアについてのリテラシーも高まるからです。何かを知りたい、理解したいと思っても、面倒なことはしたくないと思えば、みんなテレビのニュースしか見ないわけでしょう。しかし、論理力がつくということは、他人の言っていることが理解できるようになるということだから、接するメディアも情報も広がります。

たとえば、誰かのブログを読んでみようというようなことになっていくじゃないですか。そうすると、テレビで言っていることとは違うことが、ここには書いてあるぞっていうことが出てくる。そして、この人が言っていることとテレビが言っていることと、いったいどっちが正しいのか、ということを考えるようになります。

寺脇

寺脇

出口

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そうですよね。そういう意味では、メディアのほうがどんどん多極化しているようで、すごく好ましい傾向だと思います。

国民のあらゆる力を結集して教育に向き合う

出口

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imagesズバリ、寺脇さんとしては、日本の教育というのは、たとえば、政治とか、文科省も含めて、やっぱりこのままじゃいけないという、そういう気持ちがやはり強いのでしょうか。

このままじゃもちろんいけないですよね。いけないと考えるから、変えようとして中曽根さん以来、25年にもわたって変えようとしているのに、いろいろと抵抗勢力がはびこったりして、なかなか進まないという状況です。

寺脇

寺脇

出口

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現状としては、いい方向にあるのでしょうか。

images方向としては良い方向に行っていますが、不十分というのが現状です。だから、不十分な部分をこれから補ったり直したりしていかなきゃいけない。最初のほうで話が出ましたが、新しい大きな政府を作らなきゃいけない。つまり、教育に関しては、新しい大きな政府です。これが「新しい公共」なんですね、鳩山さんの言うところの。

文科省の役割というのを狭めていって、文科省の役人も減らしていって、文科省の指図するところも減らしていく。だけど、それは教育を縮小するということではありません。文科省がカバーできない部分は、「国民のあらゆる力を結集」する、そうした「大きな政府」を作っていくという方向に向かうということです。

寺脇

寺脇

出口

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大賛成ですね。もう一度、文科省のトップとして寺脇さんに戻っていただいて……。

imagesいえいえ、私が戻らなくても、鈴木副大臣の考えていることと、私の考えていることはほぼ同じですからね。これからも、民主党が政権を担当し続ける限り、鈴木さんは教育政策の中心にいるわけだし、新しい教育政策も着々と進んでいくと思います。

さっき出口さんがおっしゃった、すべての教育を無償化していくというベクトルがあるじゃないですか。すべての教育を無償化していくというベクトルは、明治からはじまって、進んでいったのですが、戦後、中学校まで無償化したところでストップして、高校から先は、それはできないとしていたのを、今度一気に踏み込み、高校無償化というところまでいきました。

imagesということは、もうちょっとこれが先まで行って、大学だってそうなるかもしれない。本当に学ぶ意欲と、大学で学ぶに足る能力を持っている人には、無償になるくらいの奨学金を出していくということはあり得ると思います。ただ、大学に行って、勉強もしないで、卒業証書だけもらおうという人まで無償にするのはいかがなものかと思いますが。ただ、そういう方向へ進んでいく流れはできていると思います。

まさに今、総力戦で教育をしていく態勢が必要です。小学校くらいだったら、近所のおじさんおばさんだって学校に行って手伝えます。高校となると、やっぱり、メソッドとしてきちんと入っていかないといけません。門外漢の人間が安易に入っていって、高校生の国語の授業を1時間やったってどうしようもないわけですから。

寺脇

寺脇

出口

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そうですね。まだ日本の教育っていうのは、絶望する必要はないということですね。

images絶望する必要はまったくありません。希望はすごくありますよ。

ただ、それを、小泉さんにしたってそうですが、ブレーキをかけてしまうものが出てくることもあるでしょう。それはしようがないですよ。三歩進んで二歩下がる。鈴木副大臣もよく言うのですが、明治維新だって、十年かかったと。つまり、大政奉還が成っても西南戦争が終わるまでは、やっぱりゴタゴタしていたわけじゃないですか。だから、そうすぐに、世の中が180度変わることはないのですから、まあ時間をかけて。だけど、方向が逆走しないように注意しないといけません。

メディアの責任はすごく重いですね。ゆとり教育をやめたとか、ゆとり教育を180度転換したというのは大誤報なわけです。そんな大誤報を垂れ流しているのですよ。文科省の基本方針は一貫しています。いくら政治が強いときでも、安倍内閣のときですら、安倍総理自身が国会答弁で「方針を転換するわけではない」と言っています。教育再生会議だって、今の教育改革の流れはいいが、心配な点がいっぱいあるから見直しをすると言っているのです。

imagesそういうことをマスコミが正しく伝えないものですから、逆走しているかのように見えますが、実は逆走していないのです。だから、流れとしてはいいのですよ。ただ、その流れが速かったり遅かったり、ちょっとそこにストップがかかったりということがありますが。

文科省も変わっています。20年以上前、外部の人が文科省を訪ねたときは、話もろくろく聞いてくれなかったのが、今ではもう担当部署に入って行けて話を聞いてくれるそういうふうに変わってきているじゃないですか。そうすると、10年後には、もっといろいろな新しいことが起こってくると思います。

寺脇

寺脇

出口

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imagesゆとり教育は、僕にとっては、方向性としては全く間違ってないと思うので、それが、実際に成果を生むように、さまざまな点で、もう一回考え直さなきゃいけないと思いましたね。

imagesそれは最初に言ったように、上部構造と中間構造のほうがぶれてしまったので、下部構造の先生たちが動揺してしまった結果、うまくいかなかった。だからそれをもう一度、上部構造から立て直していって、こういうことでやるんですよと、ちゃんとお話しする。先生たちにも、「なるほど、世の中がこう変わるから、そういうようにやらなきゃいけないのか」と、得心してもらって指導にあたっていただくということが大事だと思います。

寺脇

寺脇

出口

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そうですよね。わかりました。今日は本当にありがとうございました。

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